名称 | 大谷地下軍需工場跡(大谷資料館) | |||
住所 | 〒321-0345 栃木県宇都宮市大谷町909 |
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解説 | 陸軍の地下倉庫兼中島飛行機の地下軍需工場として利用された場所。 陸軍所管の糧秣廠と被服廠の倉庫として使用された。 地下工場の存在は敵国に知られていなかったとされる。 |
難度 | ||
A (行きやすい) |
✅戦中は地下軍需工場だった
前記した記事にもありますが、採石場を資料館として開放している栃木県宇都宮市の「大谷資料館」ですが、戦中には採石場以外の別の顔を持っていました。
それは陸軍の地下倉庫として、また三菱と並んで2大航空機メーカーの中島飛行機(現富士重工)の地下軍需工場でした。
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✅陸軍の糧秣廠と被服廠の倉庫
大谷の地下空間の広大さと年の平均気温が低温であることから、戦中は陸軍所管の糧秣廠と被服廠の秘密倉庫として使用されていました。
糧秣廠とは、部隊の兵士や軍馬の食料や飼料を管轄していた部署です。また、被服廠はその名の通り兵士の被服についてを担当した部署で、どちらも太平洋戦争敗戦まで存在していました。
✅中島飛行機宇都宮製作所
戦中の日本の航空機の生産を担った中島飛行機の疎開先としても大谷の地下空間は使われました。
当時の日本の航空機を制作していたのはいくつかの会社がありましたが、その中でも三菱と中島飛行機が大きなシェアを持っていました。
そのため、米軍の爆撃のターゲットとして狙われてしまうのも当然のことで、宇都宮空襲をはじめとした攻撃から逃れるために航空機の地下生産が始められました。
機体を生産していた宇都宮製作所と、発動機(エンジン)を生産していた武蔵製作所の2つの工場が航空機地下生産を行っており、主に制作されていたのは四式戦闘機(キ84)の「疾風(ハヤテ)」でした。
中島飛行機が生産した航空機でも性能面や生産面において傑作といわれることの多い「疾風」は、終戦までに3500機ほども生産されたといわれ、大戦後期の登場であるにも関わらずゼロ戦や一式戦に次ぐその生産数となったのは、重点生産機に指定された故になしえた事です。
この地下工場で働いていたのは、正規従業員・徴用工・関係軍人といった大人だけでなく、旧制中学三年生以上の男女学生を含めた約15000人もの人数が働いていました。
✅バレなかった地下空間
野球場は悠々と入る程の地下空間ですが、戦中は米軍による空襲は無かったといいます。
戦後になり接収の為に訪れた米軍は、終戦まで大谷の地下工場の存在には気付いておらず、その規模の大きさに驚いていたそうです。
観光的な情報はこちらの記事を参照してください!