黒しばわんこの戦跡ガイド

沖縄昭和高等女学校を祀る「梯梧之塔」

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✅場所はひめゆりの塔のすぐ近く!

私立昭和高等女学校の女子学徒隊の慰霊碑が「梯梧之塔(デイゴの塔)」です。ひめゆりの塔近くにある姫百合民芸品センターと琉球料理食堂でいごの駐車場の奥の方にあります。「ひめゆりの塔」が大々的に案内されていることもあって、目立たない「梯梧之塔」には人足は向かないようです。

✅梯梧学徒隊(デイゴ学徒隊)

1930年、昭和高等女学校は現在の泊付近に設立された私立の商業学校です。沖縄戦が避けられなくなった1945年、第62師団野戦病院に女学生達が看護隊として配属されました。梯梧学徒隊の名称は校章により戦後に付けられたものです。
本格的な沖縄戦以前に女学生達は軍医や下士官より救急医療についての講習を受けていました。その後の1944年の10月10日の那覇への大規模な空襲(10.10空襲)から本格的な沖縄戦がだんだんと始まっていきます。翌年の3月に女学生達は石部隊病院壕へ入隊します。入隊後の研修も半ばで南風原町にあるナゲーラ壕に異動となり、本格的な陸軍病院で勤務を始めます。
地上戦が始まるとナゲーラ壕にも次々に負傷者が運ばれてきます。病院壕といいますが、アブチラガマと同様に設備も十分でなく、環境も劣悪な中で昼夜の救護活動を女学生が行っていました。その内に病院壕は満床となってしまいます。その頃の陸軍は米軍の猛攻に押され首里司令部を捨て、南部地域へ敗走しているような状況で、負傷者の数がそれを物語っていました。
女学生達も壕を転々とします。野外は銃弾・砲弾の飛び交う中の移動、最期は病院壕としての機能が果せないことから’’解散命令’’が出されます。その後、動員された女学生17人の内、7名が途中の戦禍により亡くなりました。また、彼女達の母校も沖縄戦により消失します。
「梯梧之塔」は元々は女学生達の母校があった場所に建てられましたが、後に終焉の場所に移動されたとのことです。ひめゆりの塔に行った際には、こちらにも是非足を運んでみてはいかがでしょうか?



✅梯梧の塔の情報

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ポチ太郎

ポチ太郎

戦跡と旅行と黒柴が好きな管理人です。
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