名称 | アーニー・パイルの碑 | |||
住所 | 〒905-0503 沖縄県国頭郡伊江村川平 |
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解説 | 伊江島の戦闘で亡くなったアメリカ人ジャーナリスト「アーニー・パイル」を讃える記念碑。 伊江島において米第305連隊と行動して取材中、日本軍の機関銃弾により亡くなる。 |
難度 | ||
A (行きやすい) |
✅アーニーパイルの碑
沖縄戦において、伊江島は陸軍の滑走路があったために敵軍の攻撃ターゲットにされました。
伊江島では4月16日から5日間にかけて地上戦が行われています。
今回の「アーニー・パイル」という人物はアメリカ合衆国生まれの人物です。
ジャーナリストとして戦場を取材し、4月18日に伊江島で取材中に日本軍側の銃弾に当たり亡くなりました。
1900年8月3日、アメリカ合衆国のインディアナ州デイナで生まれたアーニーパイルは、ワシントンD.Cのワシントン・デイリー・ニュースの記者となります。
その後、アメリカ軍に通信員として入隊し、北アフリカやイタリア、ノルマンディ、ドイツへ同行・取材し、1944年にはジャーナリストとしては名誉である「ピューリッツァー賞」も受賞しています。
伊江島の戦闘において亡くなり、遺体はヘルメットを被せられたままで木の十字架の下に埋められました。
その後、ハワイのパンチホール国立墓地に移されています。
彼の死に対して当時の大統領トルーマンも特別な声明を発表するような人物でした。
✅アーニーパイルの碑
アーニーパイル(本名 アーネスト・テイラー・パイル)の生涯
生年月日 1900年8月3日 故郷 アメリカ合衆国インディアナ州デイナ 経歴 彼はインディアナ大学に進み、ラポーテ・ヘルラドにおいて見習いレポーターとしてキャリアを積む。 1935年 彼は机に向かう仕事に飽き、特ダネを探しはじめる。 1940年 ロンドンでラフトワッフ爆発の記事を鮮明に書く。 1942年 彼はアメリカ軍に通信員として入隊し、北アフリカやイタリア、ノルマンディ、ドイツに同行し、戦場の男たちの様子を記事にした。 1944年 彼はジャーナリストとして最高の名誉である「ピュリッツァー賞」を授けられた。
一時アメリカ合衆国へ戻ったが、すぐに第77歩兵隊へ入隊する。1945年 彼はアメリカ軍の沖縄上陸に同行し、4月16日伊江島に上陸した。4月18日取材中に日本軍の弾にあたり、この地に生涯を閉じた。
第33代アメリカ合衆国トルーマン大統領もパイルの死を悼んで特別のステートメントを発表した。※彼は兵士の視点から戦争を情緒的に書いて第二次世界大戦で有名になったジャーナリストである。
彼にとって戦争の道具はノート、ペン、そしてタイプライターであった。
彼の功績を讃えるために在沖在郷軍人会が碑を建立し、毎年4月18日に近い日曜日に慰霊祭が行われている。私たち伊江村民は誓う
二度とあの忌まわしい戦争を繰り返さない平和な世界を築くことを。2000年7月22日 伊江村
沖縄サミット並びにアーニー・パイル生誕100年記念
アーニーパイルの碑は伊江島の玄関である「伊江島港」からも程近い場所にあります。
駐車場が無く、自動車よりも自転車や原付の方が見学しやすいです。
伊江島は自転車でも周れてしまうくらいの広さの島です。