名称 | 旧陸軍第24師団第2野戦病院壕 | |||
住所 | 〒901-0241 沖縄県豊見城市字豊見城 (Googlemap:26.189689, 127.685335) |
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解説 | 第24師団(通称:山部隊)が構築した豊見城城址公園内にある病院壕。私立積徳高等 女学校の生徒らが「ふじ学徒隊」として従軍していた。戦況悪化により糸洲方面に後退した際に壕は放棄された。現在は公園が閉園しているので中に入れない。 |
難度 | ||
- (公園内閉鎖中) |
豊見城市の小高い丘陵地帯が「豊見城城址公園」として整備されていました。
2000年代初頭に公園が閉園されてしまい、園内にある壕も手付かずの状態となってしまいました。
「第24師団第2野戦病院壕」と呼ばれた壕は、戦中は軍医の小池勇助率いる山3487部隊と’’ふじ学徒隊’’が活動していた場所でした。
✅ハーリー発祥の地
✅山部隊野戦病院患者合祀碑
✅ふじ学徒隊
第24師団第2野戦病院壕で従軍していたのが「ふじ学徒隊」です。
那覇市内にあった私立校「積徳高等女学校」の生徒25名から構成された学徒隊でした。
元々は56名の生徒がいましたが、山3487部隊の軍医であり隊長であったの「小池勇助」による意思確認が行われ従軍意思を確認できた25名が壕に入りました。
他の学徒隊や鉄血勤皇隊に関しては、表面上は志願ではありましたが当時の情勢や軍国教育から、志願したくなくてもそれができない雰囲気であり反強制的なものがありました。
それに対して、この意思確認で半数以上が拒否できており、ある程度個人意思を尊重してもらえた学徒隊でした。
沖縄戦が始まると浦添や西原方面より負傷者がどんどん送り込まれ、壕内には600人近い患者で溢れます。
ふじ学徒隊の仕事は排泄物なども含む患者の身辺の世話から、水汲みや手術の補助、切断した手足や遺体の処理などの他の学徒隊と変わらない過酷な勤務をしました。
沖縄守備軍の南部撤退後、この壕にいた者も現在も糸洲に現存している「糸洲の壕(ウッカーガマ)」に撤退します。
病院壕の放棄の際には、青酸カリを混ぜたミルクにより重症患者は処置された話が多いですが、この壕に関しては気持ちばかりの乾パンと水と手榴弾が渡されたといいます。
この糸洲の壕(ウッカーガマ)がふじ学徒隊の解散場所になります。
6月26日
このガマに入ってからは催涙弾やガス弾に苦しめられていましたが、付近の戦闘が沈静化したのを見計らい部隊を率いてきた小池勇助隊長から解散が宣言された後、「ここまで一緒に支えてくれたことへの感謝」と「決して死なずに生き残ってほしい」ことを伝えられました。
他の衛生兵からも「米兵が民間兵へ危害を加えることはないから捕虜になること」をすすめ、学徒たちは投降して捕虜になりました。
その結果、25名いた学徒隊は23名が生存することができました。(戦後、戦争の記憶から1名が自殺)
他の学徒隊では半数以上の死者が出ているのに対して、この生存率の高さは異例でした。
✅軍医 小池 勇助(1890~1945)
ふじ学徒隊と戦場を生きた軍医「小池勇助」は長野県佐久市出身の医者でした。
5男1女の次男として生まれ、医者をしていた母方の伯父から医学を学び、医療の道へ進みました。
金沢医学専門学校(現:金沢大学医学部)へ入学し、内科を専攻。
卒業後、金沢歩兵第七連隊へ入営し、陸軍軍医学校では眼科を専攻します。
35歳で予備役となってから、帝国大学での研究や眼科医院での勤務ののち、地元の長野県にて眼科医院を開業する。
家族を大事にし休日は共に温泉などに出かける一方、仕事でも治療費が負担できない人からは無償で治療する温厚で優しい人柄は地元でも人気があった。
しかし、予備役ではあれど小池は軍医でした。
1937年、日清戦争から始まった第二次世界大戦・太平洋戦争により1941年には満州、1944年8月には沖縄へ出征することになります。
第24師団野戦病院(山3487)の隊長となり現在の豊見城市の病院壕に勤務しましたが、糸満市糸洲の「糸洲の壕」へ撤退。
糸洲の壕では日々米軍からの馬乗り攻撃を受け、生き残ってきた衛生兵も’’切り込み隊’’として徐々に壕を去っていきました。
悪くなる状況の中で「日本のこんな状況になるのが分かっていれば、皆さんを預かるべきではなかった」と語っています。
また、青酸カリや手榴弾を学徒達が求めても決して渡さなかった。
司令部より「学徒隊の解散命令」が出され、他の学徒隊は戦場へ無防備に放り出された中、小池隊長は「親御さんから預かった子達にそんなことはできない」とふじ学徒隊への解散命令を黙殺、付近の戦闘が沈静化してからふじ学徒隊に解散を告げました。
最後の訓示では
・現在まで奮闘いただいてご苦労だった
・かならず生き残って家族のもとに帰りなさい。絶対に死んではならない
・銃後の国民に悲惨な戦争を語り継いでほしい
感謝とこれからのことについて学徒隊に語り、学徒隊を送り出しました。
小池隊長の言葉で送り出された学徒隊は25名中23人が捕虜となり生き残りましたが、小池隊長は学徒隊を送り出した後に青酸カリによる服毒自殺をしています。
辞世の句
南の孤島の果まで守りきて
御縦となりゆく吾を
沖のかもめの翼にのせて
黒潮の彼方の吾妹に告げん
戦後、小池隊長の思いを受け取ったふじ学徒隊の生徒たちは語り部として戦争を語り継いでいます。