名称 | 旧陸軍第24師団第2野戦病院壕 | |||
住所 | 〒901-0241 沖縄県豊見城市豊見城 |
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解説 | 豊見城城址公園のある丘陵北東端部にあり、北を漫湖、東側を饒波川に挟まれた海抜約50mに位置する病院壕跡。 使用していたのは病院長を小池勇助とする旧陸軍第24師団第2野戦病院、1944年から1945年5月頃まで使用した後、糸満市の糸洲の壕へ移動する。 積徳高等女学校の女学生からなる「積徳学徒隊(ふじ学徒隊)」もこの場所に動員されていた。 |
難度 | ||
✖ |
今日は沖縄県豊見城市豊見城に残る「旧陸軍第24師団第2野戦病院」だべ
ポチ太郎
ハチ公
以前来ている場所ですね!
豊見城市豊見城の「豊見城城址公園」跡地にあるのが「旧陸軍第24師団第2野戦病院」です。
この場所は風化が進んで今にも崩れ落ちそうな病院壕跡です。
この場所にいたのが長野県佐久市出身の小池勇助少佐率いる「第24師団第2野戦病院」です。
小池勇助(1890~1945) | 長野県南佐久群野沢村(現:長野県佐久市野沢) | 最終階級:軍医少佐 |
1890 | 長野県南佐久群野沢村で6人兄弟の次男として生まれる。 野沢中学校時代、母方の伯父である内科・小児科医「阿部棄太」に医学を習い、金沢医学専門学校(現:金沢大学医学部)へ進学する。 |
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1914.11 | 金沢医学専門学校を卒業し、金沢歩兵第七連隊に入営。 その後、陸軍軍医学校にて眼科を専攻する。 |
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1925 | 35歳で予備役となり、帝国大学眼科教室にて研究生活を送る。 千葉県銚子町(現:千葉県銚子市)の眼科医院にて勤務。 |
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1929 | 郷里の長野県佐久の現:JR小海線中込駅付近に「小池眼科医院」を開業。 |
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1941 | 満州へ出兵 | |
1944.8 | 沖縄へ出兵 | |
1945.3 | 病院壕に学徒隊が配属。 56人の内、25人を動員する。 |
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1945.5 | 沖縄守備軍が5月22日に首里司令部を放棄して南部撤退となったため、病院壕を放棄。 糸洲の壕へ移動 |
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1945.6 | 6月下旬に学徒解散。 捕虜となるように学徒らを送り出した後に自決。 |
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辞世の句 南の孤島の果まで守りきて |
参考:佐久市の先人たち29
壕内は4月中旬より宜野湾市や浦添市から移送されてくる傷病兵でいっぱいになり、軍医・看護婦・学徒隊らは不休で治療・看護にあたりました。
その後、放棄されます。
戦後、壕は公開されていた時期もあったようですが、今は草木に埋もれて朽ち果てています。
✅壕内マップ
✅入口
以前は無かった大岩が入口を塞いでいます。
遂に物理的に閉鎖されました。
✅登ってみた
これは本当に危険な場所になりました。
2020年は大型台風が2つも襲来したのでその影響ですね。
✅内側から入口を撮影
右の白いのはブレーカーだべ
ポチ太郎
✅1~2
最奥が2の場所です。
奥までは20mくらい。
左へ進むと3、右に進むと4
✅2
✅2から横穴を撮影
2の場所には横穴があいてます。
補強はされていない。
奥までは大体15mくらい。
✅3から1方向
1から3へ向かいます。
泥に水分が含まれていてグチャグチャです。
この壕はクチャ(泥岩)の中に掘られた人工壕で、壁面からは乾いた泥岩質の破片が大量に崩れ落ちています。
✅壁から崩落したクチャ
✅砲弾直撃跡
まだ壕が使われていた頃、砲弾が直撃して崩落した場所です。
✅案内板
1~3の間に案内板があります。
✅錆びて今にも崩れそう
✅1付近にあった看板
✅旧陸軍第24師団第二野戦病院壕入口
ハチ公
なぜ漢数字と英数字が混在しているのか
✅4から1方向
✅4から壁方向
緩やかな下り坂で水溜まりがあります。
奥までは10mはないくらいの距離
✅4から落盤方向
頑張れば外に出れそうだべ
ポチ太郎
✅5から4方向
4付近の天井の鉄骨が崩れ落ちているんだべ
ポチ太郎
✅壕口
ハチ公
壕口は1.5mくらいの高さです!
木々の間からはとよみ大橋付近が見えます。
余談だけど壕を出て出勤したら、手の平から薬品の臭いがヤバかったべ
ポチ太郎
ハチ公
入口の落石に触れただけで、中では何も触っていないはずなんですけどねぇ!
手の平だけだから助かったべ
職場の風呂でシャンプーしたらついでに消臭されたべ
職場の風呂でシャンプーしたらついでに消臭されたべ
ポチ太郎
ハチ公
姉妹サイトの「黒しばわんこのVR遺跡ガイド」にも「第24師団第2野戦病院」を追加しました!
視点を変えられるから写真よりも分かりやすいんだべ
ポチ太郎