名称 | 黎明之塔(レイメイノトウ) | |||
住所 | 〒901-0333 沖縄県糸満市字摩文仁 |
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解説 | 平和祈念公園内の高台にある慰霊塔。 第32軍司令官の牛島満中将と参謀長の長勇を祀っている。 |
難度 | ||
B (丘に階段で登る) |
沖縄県糸満市摩文仁にある「平和記念公園」内の丘を登っていくと、日本全国各県の慰霊塔が建立しています。
さらに先に進んでいくと丘の頂上に行くことができます。
沖縄の地を見渡せるこの地に立っている慰霊塔が「黎明の塔」です。
1945年4月、米軍が読谷村・北谷付近から沖縄本土へ上陸、各地で激戦が起こりました。
嘉数高地、前田高地、シュガーローフ等の戦いを経て、日本軍は司令部のあった首里を放棄、沖縄南部地域に後退していきます。
当初10万の兵力を擁していた第32軍でしたが、南部撤退の時には約3万人程となっており、その殆どは急遽招集された戦闘経験のない県民によって構成され、純粋な軍人は少なかったようです。
当時の県知事「島田叡」は住民の本土・本島北部疎開に尽力していましたが沖縄南部地域は疎開がまだ十分にされておらず、沖縄南部地域が戦場となっていくと沖縄県民や日本軍人が各地の壕へ逃げ込みました。
首里を放棄することに対して住民を守りたい島田知事と牛島司令官に衝突がありましたが、沖縄戦は米軍の本土上陸まで時間を稼ぐためとして断行することとなった。
✅黎明之塔
混戦の末に牛島司令官は各部隊を指揮していくことは困難であると判断し、各部隊に最後の命令を下した後に大本営に向けて決別の電報が打たれます。
その夜、洞窟から司令部付きの参謀四名が残存部隊を指揮するために敵地に出撃しますが消息不明になります。
ついに摩文仁の丘前面に米軍戦車が迫りました。
二門の高射砲による射撃によって数輌の戦車を破壊することができ、他にも爆雷を抱いての特攻攻撃が行われました。
しかし戦況を変えることはできず、喜屋武岬方面で戦っていた第六十二師団の将校らが自決、半島中部に孤立していた第二十四師団でも師団長以下全軍が敵陣に斬り込んで戦死します。
✅第32軍司令部終焉之地
遂に摩文仁の丘の第32軍司令部壕周辺まで米兵が迫まり、壕の上部にあたる丘の山頂部も制圧された為、米軍侵入を防ぐために壕が塞がれます。
一時、牛島司令官は丘の山頂で自決しようと考えますがもはや丘の上を奪還する戦力もなく、丘上の入口とは別の入り口、海側の開口部付近で牛島司令官と長参謀長は割腹しました。
現在、第32軍司令部壕は柵がされて公開され、丘の上には2人を祀る「黎明の塔」が建っています。
また、第32軍司令部将校らを祀る「勇魂の碑」と牛島・長両氏の墓跡も黎明の塔近くにあります。
✅姉妹サイトの紹介
360度パノラマ写真でストリートビューのように戦跡を見ることができる姉妹サイト「黒しばわんこのVR遺跡ガイド」に、「黎明之塔・勇魂之碑・高摩文仁グスク」を追加しました。
写真だけでは分からない周辺の様子なども見ることができます。
http://vr-remains.kur0s1ba-wank0.com/castle/itoman-reimei-tower/