平和記念公園から程近くに「沖縄師範健児之塔」というものがあります。
周りはデイゴに囲まれ、海からも程近くにあるので波音と自然の音しかない静かな場所です。
沖縄戦において、若干15歳から19歳の県下の中学校の生徒が動員され、その生徒らを祀った場所です。
石碑と、「平和の像」と呼ばれる3人の学徒が肩を寄せる銅像があります。
向かって右側から「友情」、中央が「師弟愛」、左側が「永遠の平和」を象徴しています。
戦争によって沖縄師範学校の生徒は「鉄血勤皇隊」として招集されます。招集といいますが、彼らの年齢は10代前半であり法的な拘束力は持ちませんし、家族の同意も必要になるので「志願」という形でした。しかし、「鉄血勤皇隊」を始めとした部隊の編成自体が学校毎の編成である事に半強制的な面が強いことや、家族の同意書を学校が偽造するなど本人の意思に関係なく志願させられていたのではないかと思います。
鉄血勤皇隊と一言に言っても、出身学校により部隊名は変わってきます。沖縄師範学校の生徒は「師範鉄血勤皇隊」、県立第一中学校は「一中鉄血勤皇隊」、県立農林学校は「農林鉄血勤皇隊」という具合です。そして、このそれぞれの部隊毎に慰霊碑は存在しており、摩文仁にある「健児の塔」は沖縄師範学校出身の「師範鉄血勤皇隊」に対しての慰霊碑です。
鉄血勤皇隊の主な任務は陣地構築、爆弾を担いでの切り込み、伝令や通信です。爆薬を箱に詰めて作成した約10㎏の「急造爆雷」を担いで敵陣地や戦車に飛び込んでいくのですが、相手戦車の機能を奪うためにキャタピラを切断することを狙い、轢かれるように爆死をするというやり方でした。そのため、車体に潜り込みやすい体の小さい勤皇隊が切り込みを命じられることが多かったようです。伝令や通信に関しても、戦地は銃弾や爆撃が行われています。3人の勤皇隊員に同じ文書を持たせて派遣し、一人でもたどり着けば...といったやり方です。
「健児の塔」東側の細道を降りていくと慰霊碑の裏手にガマがあります。このガマで多くの生徒が切り込みか自決か、敵の手にかけられるかの選択を迫られた鉄血勤皇隊最期の地となります。ガマは特にロープなど張られていなかったので入ることもできそうですが、個人のご判断にお任せします。調べてみると、中には納骨堂があるとのことです。また岩壁には火炎放射器の跡も見ることができるそうです。海岸側へ更に行くと、学徒らが弾雨の中通った水汲みの井戸も残されているそうです。
健児の塔は平和記念公園からでも黎明の塔などを経由し歩いていく事もできますが、階段のアップダウンも多く時間がかかってしまうので健児の塔の駐車場に停めていくのが楽です。
那覇方面から国道331号線で健児の塔へ向かう場合は、健児の塔の案内があるのでそれに従うと駐車場に行きつけると思います。平和記念公園入り口の手前で右折する形になります。
駐車場からは健児の塔への案内看板があるので階段を少し下ると公衆トイレがあり、更に下ると健児の塔があります。