考え出される’’桜花’’
戦中、開発された空の特攻兵器’’桜花’’ですが、初めて構想が提案されたのは終戦1年前の1944年5~6月頃と言われています。海軍軍人の大田正一大尉(最終階級)が航空技術廠長和田操中将に進言して開発がスタートしました。当時、すでに無人誘導のミサイルは極秘裏に行われており、その情報を知った大田大尉は現状はどんなもんなのか?ということで研究をしていた会社に概要を聞きに行きました。当時の技術ではまだまだ誘導装置の精度が悪く、使い物にならないと知った大田大尉が「それでは人間が誘導すればいいのではないか」というところから’’桜花’’の構想が芽吹いたのです。
その頃、ドイツではV1号という誘導ミサイルが開発されており、日本も負けじと研究開発が行われていました。そんな時に舞い込んできた大田大尉発案の有人ミサイル案は、問題とされていた低い命中精度という問題を解決できるものでした。旧日本軍は海上に浮かぶ戦艦や空母に対して一発必中させ、沈めていくことを目指していたので命中精度の低さは致命的だったのです。航空技術廠にいた技術者の三木忠直は、和田中将に相談されたことや大田大尉の熱意にも推されて研究に協力し始め、後に軍部から桜花の研究が認められると主担当者を任されます。その後、約半年ほどで実践投入されていきます。
「空」から「陸」へ
開発・使用された’’桜花’’ですが、運用の難しさからなかなか良い結果を出せず戦争は終結します。特攻機’’桜花’’の設計者である技術者三木忠直は、旧日本軍の組織命令にしろ特攻機の設計をしてしまったことや、それによってこれからという若者の未来を間接的に奪ってしまったことへの自責の念に苦しんでいた時、聖書に出会います。クリスチャンの母親と奥さんの勧めでキリスト教へ入信します。’’桜花’’に対する後悔の念を十字架のあがないに預け、三木は戦後を生きていきます。
三木は戦後、鉄道技術研究所で勤務し鉄道技術者として働きます。航空業界に行けば戦闘機、船舶業界に行けば軍艦、自動車業界に行けば戦車に携わるかもしれないと考え、これからは平和利用の機会が多いであろう鉄道業界に入ったといわれています。また戦後は陸海軍解体によって技術者達も様々な職に分断されて生活をしていました。そんな中、三木のように優秀な技術を持ちながらもそれを持て余しているのを見逃さなかったのが現在はJR各社に分かれている旧国鉄です。当時の鉄道は海外から見ると日本は遅れをとっていました。戦中、傀儡国家の満州で走らせた「特急あじあ号」は冷暖房を完備しているなど他国から見ても優れていた点もありましたが、速度に関しては120㎞/時前後であり欧米諸国の160㎞/時から大きく引き離されていました。戦後に関しても同様であり、そのためにも優秀な技術者が必要だったのです。
入るべくして入った鉄道業界で、1957年に「東京-大阪間三時間への可能性」という鉄道技術研究所創立50周年記念講演会で講演をします。そこで三木は「航空機のような流線形を電車にも取り入れる事で速度は大きく向上させることができる」という航空機に携わっていた技術者らしい意見で新幹線の可能性を表現しました。この意見を耳にした当時の国鉄総裁からもGOサインがあり、新幹線設計事業に三木は携わっていきます。そして出来上がったのが’’新幹線0系電車’’です。走行実験では最高時速は256㎞/時を記録し、それまでの日本の鉄道業界に大きな転機を与えました。それ以外でも現在新宿から小田原まで走るロマンスカーで知られる小田急電鉄の3000型車両の設計にも携わり、ロマンスカーというブランド発展の一翼を担いました。
その後、三木は2005年に96歳で他界されました。生前は新幹線開業から45年間、乗客の死亡事故が0の安全な新幹線を誇りに思っていたようです。技術というのは使い方次第で人を豊かにすることも、また逆のこともできるという事を改めて考えさせられます。