沖縄本島南部、糸満市米須地域に「ジョンマンビーチ」というビーチがあります。
名前の由来は’’ジョン万次郎’’という日本人が降り立った場所からだそうです。
ジョン万次郎は現在の高知県土佐清水市にて漁師の家に生まれました。
家が貧しかった事に加えて、9歳の時に父親が無くなりジョン万次郎も働きに出ていました。
転機となったのは14歳の時です。
仲間と漁に出た際に遭難してしまい、伊豆諸島の島の一つ’’鳥島’’に漂着。
約143日の無人島生活の後、アメリカの捕鯨船’’ジョン・ハウランド号’’により救助されます。
当時の日本は鎖国中の為、外国船が日本に近づくことができない状況であったので比較的安全であったハワイまで運んでもらいます。
ジョン万次郎以外の漁仲間はハワイで降ろされましたが、ジョン万次郎を気に入った船長は、アメリカ行きを希望したジョン万次郎を共にアメリカに連れていき、養子として迎え入れました。
’’ジョン万次郎’’という名前も、船の名前「ジョン・ハウランド号」にちなんで付けられました。
アメリカへと渡ったジョン万次郎はマサチューセッツ州で暮らし、学校では英語や数学、航海術等を必死に勉強して優秀な成績を収めます。
卒業後は捕鯨船に乗船し経験を積み、数年後に日本への帰国を決めます。
ゴールドラッシュで沸くカルフォルニアにて資金を調達し、自分の船「アドベンチャラー号」を購入。
ハワイで暮らしていた漁仲間と共に日本へ向かいます。
1851年2月2日、悪天候の中を沖縄県糸満市喜屋武岬の沖合まで接近し、翌朝には小渡浜に上陸しました。
付近の村人から食べ物などのもてなしを受け、自分たちもアメリカから持ってきたコーヒーや牛肉を調理してみせます。
身元不明のジョン万次郎らは摩文仁間切番所へ連行・取り調べをうけますが、箸を上手に使えたことで日本人と認められました。
その後、琉球(沖縄県)から薩摩藩などに送られ長い尋問生活の末、帰国から二年後に故郷の高知県に帰ることができたのです。
日本では翻訳や通訳として活躍する傍ら、アメリカで培った航海術や英語を多くの人に教えていました。
明治31(1898)年、71歳でその生涯を終えます。