第40教育飛行隊の門柱
名称 | 第40教育飛行隊の門柱 | |||
住所 | 〒897-0302 鹿児島県南九州市知覧町(知覧特攻平和会館内) |
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解説 | 昭和19年の知覧に置かれていた第40教育飛行隊の門柱跡。 高等教育を受けた者から選抜された特別操縦見習士官の第2期の操縦教育が19年7月から年末まで行われた。 |
難度 | ||
A |
鹿児島県南九州市知覧町に「知覧特攻平和会館」があります。
知覧を含む、九州各地から多くの特別攻撃隊(特攻隊)が南の海へ飛び立ちました。
かつての知覧基地があった「知覧特攻平和会館」では特攻隊についてを学ぶことができます。
そんな知覧特攻平和会館の屋外に「第40教育飛行隊の門柱」があります。
「第40教育飛行隊の門柱」は、「太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所 正門門柱」に隣接するように展示されています。
農地が広がる知覧の地に戦争の足音が聞こえたのは1941年末でした。
この地に「太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所」が完成したのです。
翌年1月には初の入校者78人が到着しています。
当初は少年飛行兵や陸軍特別幹部候補生の訓練を目的とした場所でした。
しかし、戦況が悪化しつつある戦争末期の1945年になると知覧分教所は「第7飛行団」となり、知覧特攻基地となりました。
✅第40教育飛行隊(西部第123部隊)
第40教育飛行隊(西部第123部隊)由来
昭和19年知覧に第40教育飛行隊があり、7月から年末まで学徒出身の特別操縦見習士官第2期生136名の操縦教育が実施された。
その後部隊も見習士官も移動した。
それから半年の後、再び知覧に降り立った同隊の第2期生及び教官を含む47名がいるが、全員振武隊となり、思い出の飛行場から一路沖縄に出撃した。
なお第40教育飛行隊は菊池、各務原と移り陸航士第58期生86名、特別操縦見習士官第2期生50名及び第3期生61名の教育をつづけて終結した。平成2年5月3日建之・平成14年3月31日修復
第40教飛の会
知覧特攻顕彰会
特操2期生会
特別操縦見習士官は、大学や専門学校、高等師範学校などの高等教育機関に在学・卒業した者の中から選抜して、日本陸軍の予備役将校操縦者として選ばれた人達です。
彼らは高等教育を受けており知能など素質が高いことから、通常よりも短期間で操縦などの教育が行われました。
特別操縦見習士官について公表された1943年は、当初の日本軍の快進撃も終了し、連合艦隊司令長官であった山本五十六大将が乗っていた一式陸攻が撃墜されるなど、戦況は良いとは言い難い時期でした。
航空戦力の急な拡充に伴い、航空機の大量生産と操縦士の大量育成が求められた結果、徴兵を猶予されていた学生たちに白羽の矢が立ちました。