1947年、時の江戸幕府は米国からの帆船、所謂’’黒船’’への対策として臨時的に猿島に3ヶ所の台場を作り、大筒15挺(江戸時代にかけての大砲の別称)が置かれました。臨時に置かれたものですが、これが日本初の台場といわれています。
✅2番目の洋式要塞
1881年には東京湾要塞のひとつとして陸軍により築造が開始され、3年後の1884年に洋式の要塞が完成しました。これは横須賀の南に位置する観音崎に次いで2つ目の要塞で、完成と同時に一般人の立ち入りは禁止されたといいます。造られた要塞は島の中央部を南北に縦断するように作られ、弾薬庫や兵舎と砲台をトンネルで繋いでいます。
✅旧侍が作ったレンガを使用
トンネルに使用されているレンガは士族授産工場製の物が使用されています。
士族授産というのは、生活難の旧士族に与えられた仕事です。江戸時代から明治政府に移り変わった際、士族・華族が支給されていた俸禄の支払いも明治新政府が引き継いで支払うことになりました。しかし、額が膨大であったために1876年、俸禄・家禄制度の全廃政策として秩禄処分を行います。これによって士族・華族の生活が困窮することになってしまったので、現代のハローワークのように国が農業・商業など武士以外の道へ斡旋してあげました。
猿島で作られたレンガも旧士族が作ったもので、職人が造ったレンガと違って火の温度も一定ではないために、レンガの色も様々となっています。
しかし、観光客にはそのグラデーションが逆に人気だったりするようです笑
✅フランドル積みのレンガ
猿島のレンガはフランドル積み(フランス積み)という積み方がされています。現代よく見るイギリス積みは「長いレンガだけの段、短いレンガだけの段と一段おきに積む方式」に対して、フランドル積みは「一段に長いレンガと短いレンガを交互に積む方式」です。猿島要塞完成後まもなくイギリス積みは主流となった為に現在も多く残っていますが、造られた時期が短かったフランドル積みは現在では珍しいものとなっています。
✅海軍によって砲台島へ
関東大震災を契機に陸軍は猿島を放棄し、それを海軍が引き取ります。先の大戦中は海軍によって高角砲陣地が整備されました。
海軍に引き渡されるまでは第一砲台27センチ加農砲が2門、第二砲台24センチ加農砲の4門で艦船を目標としていましたが、日本海軍は防空の為の高角砲が設置されました。