黒しばわんこの気まま人生

沖縄陸軍病院 南風原壕群20号

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南風原町の横穴壕

先日書いたアブチラガマ(糸数壕)に行く前に沖縄陸軍病院南風原壕群20号にも行っていました。この場所はアブチラガマでも勤務していたひめゆり学徒隊も勤務していた場所です。戦況が悪化して、この場所からアブチラガマや南部の他のガマへ移動していきました。もともと沖縄陸軍病院というのは1944年の5月に熊本で編成され、6月から那覇市内で活動を始めました。

十.十爆撃(ジュウ.ジュウバクゲキ)

しかし、同年10月10日の米軍の空襲によって施設は焼失し、南風原国民学校校舎に移転しました。この空襲は十.十空襲と呼ばれており、早朝から夕刻までで5回の空襲があり、約1400機の米軍の艦載機が約541トンの爆弾を民間施設も含めて無差別に落としていきました。那覇の9割が焼失した空襲で、日本への空襲では初めて焼夷弾(着弾した周りの建造物を炎上させる目的の爆弾)が使われました。

不十分な病室

南風原国民学校の校舎に移転しましたが、再度校舎は焼失してしまいます。そのため、今度は付近の黄金森と呼ばれている森林部分に以前より作っていた横穴に病院機能を移します。横穴壕の数は、字兼城(現南風原町役場北側の丘)と字喜屋武(黄金森)を合わせて約30作られていました。横穴内には二段ベッドが作られて、重症患者はここに寝かされていたといいます。横穴の中は174㎝の私でも頭をぶつけそうになる高さで、広さも1mちょっとあるかないかなのでベッドなんて置いたらすれ違いどころか、一人通るだけでもきついと思います。この各壕を軍医や看護婦、衛生兵約350人に加えて、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人と教師18人が看護補助要員として各壕に動員されました。4月1日、米軍が沖縄中部の読谷村付近の海岸より上陸し、地上戦が展開されると外傷患者は更に増え、外科を「第一外科」、内科を「第二外科」、伝染病科を「第三外科」と改めて、急増患者に対応しようとしました。内科なのに外科!?

南風原壕の最後

戦況が悪化し、陸軍病院に撤退命令が出されると重症の患者には牛乳に青酸カリを混ぜて渡されたそうです。それで自決しろということです…中には優しさから青酸カリを混ぜていない牛乳を渡された者もいたようですが、身動きができない以上いきつくところは同じだったと思います。使用していた薬剤についても、出口近くの土に埋められていたものが発見されています。

 

次回に続きます



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自己紹介

ポチ太郎

ポチ太郎

アラサー独り身旅好き男。 仕事のストレスは趣味のダイビング・スノボー・サバゲー・一人旅で発散しています! 将来の夢は沖縄移住! [詳細]