黒しばわんこの気まま人生

戦跡・スキューバダイビング・スノボー・サバゲーなどアウトドア好きアラサー男による旅行記ブログです。

「黎明之塔」と「摩文仁の丘」

time 2017/12/09

「黎明之塔」と「摩文仁の丘」

「摩文仁の丘」見渡せるのは広い海と南部の街並み

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沖縄県糸満にある平和記念公園から丘を登っていくと、日本全国各県の慰霊塔が建立しています。さらに先に進んでいくと沖縄戦での牛島満中将率いた第32軍の終焉の地、黎明の塔と第32軍司令部壕跡が存在する摩文仁の丘へ行きつきます。

沖縄戦は1945年4月に米軍が読谷村付近から上陸し、シュガーローフの戦いなどを経て日本軍は沖縄南部に後退していきます。当初10万の兵力を擁していた第32軍も南部撤退の際には約3万人程となっており、更にその殆どは招集された県民によって構成されており、純粋な軍人は少なかったようです。当時の沖縄南部は疎開などが十分にされておらず、沖縄南部地域が戦地となっていくと沖縄の原住民や日本軍人、アメリカ軍人が入り乱れてかなりの混乱があったそうです。住民の疎開も銃弾の飛び交っている中で行われ、更に梅雨期で悪環境ということもあり、ご遺体が雨ざらしで散乱していました。

混戦の末、牛島軍司令官は各部隊を指揮していくことは困難であると判断し、各部隊に最後の命令を下した後、大本営に向けて決別の電報が打たれます。この夜、洞窟からは司令部付きの参謀四名が敵地に残存部隊を指揮するために出撃して行ったが消息不明になります。
ついに摩文仁の丘前面に米軍戦車が迫り、二門の高射砲による水平射撃によって数輌の戦車を破壊し一矢報いたが反撃を受けてしまい、あとは爆雷を抱いての特攻攻撃が行われました。喜屋武岬方面で戦っていた第六十二師団の将軍たちが自決、半島中部に孤立していた第二十四師団でも師団長以下全軍が敵陣に斬り込んで戦死しました。
そして摩文仁の丘司令部洞窟周辺にまで米兵が迫り、洞窟の上の丘の山頂部も制圧されてしまい、司令部壕に入ってこれないように陸側は米兵の侵入を防ぐために塞がれます。牛島中将は丘の山頂で自決しようとします。しかし、敵の制圧下にあるため奪還作戦も行われましたが失敗に終わります。そして、司令部のもう一つの入り口の海側入り口の開口部付近の岩場で牛島軍司令官と長参謀長は割腹自決を果たしました。その後も米軍による掃討作戦は続き、七月二日に至って琉球作戦の終了が宣言されます。

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ポチ太郎

ポチ太郎

アラサー独り身旅好き男。 仕事のストレスは趣味のダイビング・スノボー・サバゲー・一人旅で発散しています! 将来の夢は沖縄移住! [詳細]

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