✅シムクガマとチビチリガマ
沖縄県読谷村にはチビチリガマとシムクガマという自然壕があります。
1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した際、上陸地から目と鼻の先ほどの読谷村の住民は自然壕や亀甲墓などに隠れました。
その中でも読谷村波平区の住民の多くは、村内のチビチリガマとシムクガマに分かれて避難します。
✅生きたシムクガマ
「シムクガマ」は総延長2,570メートルほどの天然の鍾乳洞です。米軍進軍の際、住民ら約1000人がシムクガマに避難していました。また避難者が1000人程いたことから別名「1000人壕」とも呼ばれているようです。
ついに米軍にガマを発見されてしまいます。米兵が銃を構えて洞窟入口に近づくと、住民は恐怖の余りうろたえて、洞窟内はパニックになりました。誰もが洞窟の奥へ逃げ込もうとしますが、1000人程が逃げ込んでいるため足の踏み場もありません。いよいよ殺されるのだと…
しかし、ハワイ移民の帰国者である二人の老人、比嘉平治氏(72歳)と比嘉平三氏(63歳)が
「アメリカ人はむやみに人を殺さないよ」
「米軍は国際法に従って行動している」
ということを訴えて人々を説得します。その結果、全員投降して犠牲者は出ませんでした。
現在はその二者に感謝の意をこめて洞窟内に記念碑が建立してあります。
✅シムクガマの情報
シムクガマ内には水が流れ込んでおり、足場が悪いのでご注意下さい。また、雨天の際はいつもより水量が増水する恐れがありますので、シムクガマを訪れる際には天候確認を十分に行って下さい。
草むら付近ではハブ等に注意して下さい。
ゴミ等は捨てないで下さい。
✅チビチリガマの悲劇
前述したシムクガマから約1㎞程の距離にあるのが「チビチリガマ」です。最近では未成年の少年に壕内が荒らされたことでニュースになりました。
この場所では、シムクガマとは違い’’集団自決’’が行われた場所です。同じ村内で一体何が違ったのでしょうか。
アメリカ軍上陸直後、壕の中から男女3人が竹やりを持って出て行きましたが、男2人が壕の前で倒れたのを見て壕内はパニックになります。
当時の米軍に対してのイメージは’’鬼畜’’と普段から教えられてきた住民たちは、米軍の手で逝くくらいなら…と自ら命を絶ったり、肉親同士で手をかけたりといった行為に走っていきます。
布団を火で燃やして窒息死を図ったり、毒薬注射によって死を選んだり、刃物で肉親相互が殺し合うという事が繰り広げられました。その結果、避難者約140人の内、83人が非業の最期を遂げてしまいます。日常から行われていた集団的洗脳とも思われる日本政府の教育が、この結果に強く影響したことは間違いなさそうです。チビチリガマにもシムクガマのように説得できる人がいれば結果も変わっていたのでしょうか。
現在は遺族会の意向により、チビチリガマへの入壕は禁止されています。