東京都東大和市にある東大和南公園には、航空機エンジンを生産する工場へ送電していた変電所の遺構が残っています。
戦争の要であった航空機のエンジンを造っていた工場は変電所の隣にあり、1945年頃にはB-29などから度重なる空襲が行われました。
鉄筋造りの変電所は倒壊はしなかったものの、戦闘機グラマンによる銃撃跡が生々しく残っています。
戦後、この変電所は内部設備を交換しながら1993年まで稼働し続けました。
✅日立航空機
鉄道車両や自動車、航空機などの機械製造をしていた東京瓦斯電気工業が、1939年に日立製作所に経営権を譲渡し、後に航空機部門のみ独立して生まれたのが日立航空機株式会社です。
航空機メーカーではあったが、自社で機体の設計などは行わず、練習機と練習機用小型エンジンの製造がメインの会社で、大森・羽田・立川・千葉・川崎に工場を持っていました。
✅1941年6月頃の航空写真
✅前方から
旧日立航空機株式会社立川工場変電所
この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場(立川発動機製作所)に改名)の変電所です。
北隣にあった設備で受電した66000ボルトの電気を、3300ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。東大和市教育委員会
✅右側
✅後方から
✅左側
外壁に残る無数の穴は、太平洋清掃の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
工場地域への攻撃は3回ありました。
最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。
2回目は4月19日、P-51 ムスタング戦闘機数機によるもの。
3回目は4月24日、B-29 の101機編隊による爆弾投下で合わせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの死傷者を出しました。
✅入口
この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けました。
都立公園として整備されるにあたり、いったんは取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存に当たっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。
そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
✅給水塔跡
給水塔
旧所在:東大和市桜ケ丘2丁目
変電所の西方約230メートルのところにあった給水塔は、高さが約25メートルあり、工場内のほぼ全ての水をまかなっていました。
太平洋戦争中の昭和20年(1945)、三回にわたる米軍機の空襲を受けましたが、戦後もずっと工場内に水を送り続け、工場の移転により、操業も停止するまで、給水塔も働き続けました。
戦争中に施された迷彩が、長い年月の間に色が薄れ、濃淡がやっとわかる程度になってしまった給水塔は、変電所同様戦災建造物として歴史的価値が高いものですが、老朽化に伴う維持管理や用地取得などの問題から、平成13年(2001)3月やむなく取り壊されることになりました。その際、爆撃の痕跡を顕著に残す部分を切り取り、ここに保存することにしました。東大和市教育委員会