✅言問橋全景
「言問橋」という橋の由来は諸説あるようですが、その中の一つが平安時代の六歌仙’’藤原業平’’の歌があります。
「名にしおはば いざ言問わん都鳥 わが思う人はありやなしやと」
…都鳥(ゆりかもめの意)よ、都と名の付くお前にたずねよう。私が思っている人は都で元気にしているのかと
都から遠く離れた藤原業平が、隅田川の湖畔で見つけたゆりかもめを見て詠んだ歌と言われており、この中の’’言問’’から付けられたという説があります。しかし、この説の場所は白髭橋寄りの場所ではないかとも言われ、他にも由来には諸説あるようです。
ちなみに、東京都の都民の鳥は’’ゆりかもめ’’となっています。
✅言問橋
1945年3月10日、東京に大規模な空襲がありました。
通称「東京大空襲」と呼び、東京全域に焼夷弾による大規模な被害が出ました。
「焼夷弾」というのは爆弾の中に詰まった焼夷材が燃えることで、付近の建造物を火災に追い込む爆弾のことです。
現代では多種多様な建築材料によって火災に強い家というのは普通かもしれませんが、たったの70年ちょっと前は木造建築が普通であったため、この焼夷弾による火の雨は住民を混乱に陥れました。
今回の言問橋付近も例外でなく、焼夷弾は言問橋の付近に火災を起こしました。
そこらじゅうで火事が発生し、人々はどこに逃げればいいのか分かりません。
灼熱の炎が迫ると人々は水を求めて墨田川へ向かっていき思いました。
「言問橋を渡って対岸へ逃げれば助かるのではないのか」
しかし、隅田川周辺はどちらも大火災が発生しており、橋を渡ったところで火に飛び込んでいく状況でしたが、混乱した民衆にはそんなことは知る由もありません。
両岸の住民が対岸に向かって言問橋を渡ります。
対岸に向かう民衆同士がぶつかって言問橋は大混乱となり、そこに火の粉が襲います。
橋の上は阿鼻叫喚で、火に焼かれる者や3月で冷たい川に飛び込む者など様々でしたが、焼け死んだ者や翌朝には川で凍死した者などがほとんどでした。
生き残った者が言問橋を渡るには黒く焼けた死体を踏んで通るしかなかったといいます。
現在でも両岸の石柱には焼け焦げた黒い部分が残っています。
また、約300機のB29によって引き起こされたこの大空襲の被害ははっきりとは分かっていません。