風部隊之碑
所在地 | 沖縄県糸満市摩文仁 |
建立年月日 | 昭和53年5月20日 |
合祀者数 | 447柱 |
管理団体 | 航風会 |
風部隊之碑は第二次世界大戦において日本陸軍の航空部隊のうち大本営直轄部隊であった中央航空路部隊(風一八九一八部隊)と第五野戦航空修理廠第一分廠(誠一九〇二三部隊縄部隊・旧太刀洗陸軍航空廠那覇分廠)両部隊の軍人軍属の戦没者故近藤卓二大佐以下480柱の御霊が合祀されています。
大東亜戦争に於て昭和19年8月、風18918部隊(中央航空路部)は大本営直轄として東部、中部、西部、沖縄、台湾、朝鮮管区が編成され沖縄管区は那覇にて編成、第5保安中隊、第9勤務中隊はそれぞれ太刀洗及び菊池飛行場に終結の上、沖縄にて既に勤務中の陸軍航空保安部那覇出張所を改編し沖縄本島(読谷及小禄飛行場)、宮古島、徳之島、石垣に展開し通過する飛行機のため第5野戦航空修理廠第1分廠(太刀洗航空廠那覇分廠)と一体となり戦況気象情報、基地通信、整備、燃料補給、警備、給与に任じたり。
而して両部隊の長は故近藤卓二大佐が兼務せり。昭和19年10月10日以降沖縄戦局愈々急を告げ、内地との連絡困難なるに及び、共に第32軍の指揮かに入れり。昭和20年4月、米軍大挙して陸海空より沖縄本島に来空し、その厖大なる戦力は為に山形を改め焼土と化するに至り戦局利あらずついに摩文仁に退く。その間、軍通信網も壊滅状態となるや風部隊はこれに代り大本営及び関係部隊に戦況を報し、特に第32軍最後の状況をも打電せり。また生存者は微力なる装備をものともせず戦い、切込突入隊となりて奮戦しその大半は遂に散華し了りぬ。
宣なる哉軍司令官牛島中将より賞詞及び感謝状を受けたるは、茲に33回忌に当り、奇しくも生き延び得たる者及び関係者相謀り、遺族各位と共に今は亡き戦友を招魂し併せて、航空路本部他管区戦没者を合祀して恭しく弔意し、以てその崇高なる愛国の至誠を讃え子々孫々に至るまで戦争の絶滅を誓い、祖国永遠の平和を希求する象徴たらしめんとす。
英霊よ、来り永へに安らけく留まり、吾等一同子孫に至るまで加護を垂れ給わんことを翼う。
昭和53年5月吉日
風部隊之碑 建設委員一同