✅バルチック艦隊を倒した東郷
鹿児島市のみゆき通り沿いには戦時に活躍した偉人の生誕地が数多く存在しています。陸軍大将の大山巌や沖縄戦において陸軍の指揮をとった牛島満などが名を連ねていますが、鹿児島中央高等学校横にあるのが「東郷平八郎生誕地」です。
✅東郷平八郎誕生地
✅東郷平八郎とは
1848年12月に鹿児島にて誕生します。体型は比較的小柄でしたがイケメンだったので、壮年期は料亭等で芸者からモテモテだったそう!
薩摩藩士として薩摩藩水軍に入って薩英戦争にも参加しています。
戊辰戦争でも、薩摩藩の軍艦「春日丸」の乗組員として阿波沖、宮古湾などで幕府海軍とも戦っています。
明治になると「竜驤」の見習士官となり、イギリスのポーツマスに留学し練習船の「ウースター」に乗り込んで海軍術を学び、当時日本がイギリスに発注していた軍艦「比叡」が完成すると、その完成品に乗って日本に帰国してきます。
帰国後は巡洋艦大和艦長、呉鎮守府参謀長などを歴任します。
1893年にハワイにおいて起こったハワイ王国とアメリカ人地主・海兵隊の争いの際には、邦人保護の名目で巡洋艦を二隻派遣し遺留民保護とアメリカ側に防衛線をはったことは、ハワイ原住民から大変感謝されたそうです。
日清戦争においては巡洋艦「浪速」の艦長として豊島沖海戦で勝利しています。また、清国兵を乗せたイギリス商船が停船の警告に応じなかったため、国際法の下で撃沈を決断したことは東郷の名前を広く知らせることとなりました。留学において国際法をしっかり学んだことでこの判断ができたのだとされています。また、この沈着な判断力が後の連合艦隊司令長官に人選される要素となったともされています。
日清戦争後は海軍大学校の校長や佐世保鎮守府司令長官を歴任して、海軍大臣’’山本権兵衛’’の推挙により常備艦隊司令長官に任命され、連合艦隊が設立されると連合艦隊司令長官となって日露戦争期の海軍を指揮しました。特に知られているのは、バルチック艦隊との日本海海戦です。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の言葉が知られていますが、戦法においても敵前での大胆な旋回を行い「東郷ターン」とも呼ばれる作戦を駆使し、連合艦隊が勝利に導いたことは日本側の勝利を決定づけたとも言えます。
小国’’日本’’が戦力差を覆してロシアに勝利したことは世界でも驚かれ、そして「東郷」の名前も世界に知られることとなりました。イギリスの風刺雑誌「パンチ」に掲載された作品の中にも’’トーゴー’’という名前が登場しており、当時日英同盟により友好的であったイギリスにとっても東郷の活躍が話題になったのです。
日本国内においても東郷は熱狂的で、自分の子供に平八郎という名前を付けるのが流行しました。
晩年は料亭で連日遊んだり、鉄砲を撃ちにいったりするなどプライベートを楽しんだ末、86歳で亡くなりました。
✅東郷平八郎の銅像
✅都内の私邸は公園に
1881年(明治14年)から1934年(昭和9年)まで暮らした東京都千代田区の邸宅跡は、現在は公園として整備されており東郷邸にあったライオン像や力石が現在も残されています。