旧陸軍第24師団第2野戦病院
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小池勇助軍医少佐率いる「旧陸軍第24師団第2野戦病院」
豊見城村字豊見城の「豊見城城址公園跡地」にあるこの病院壕にいたのが「旧陸軍第24師団第2野戦病院」です。 この一帯は丘陵地帯、病院壕の位置は北東端部にあたり、北には漫湖・東側を饒波川に挟まれ、海抜は約50mの高台に位置しています。 手掘りで掘られた人工壕で、1944年から1945年の5月末頃まで使用、野戦病院の撤退で放棄されました。 この一帯の土壌はクチャ(泥岩)で、現状では壕は形を保っているが乾燥した壁面が徐々に崩れ落ちている他、壕内の補強に使われている鉄筋も劣化が進んで鉄筋が崩れ落ちている場所もあり、いつ崩落してもおかしくない。当初は56名の生徒がいたが、正式に配属されたのは25名だったんだべ
積徳学徒隊の高い生存率
25名の女学生が正式配属された積徳学徒隊。戦争では2人が亡くなり23名の生徒が生き残りました(戦後、戦争の記憶から一名が自殺)。他の学徒隊では半数以上の死者が出ている隊もある中、積徳学徒隊は高い生存者数になっています。
「糸洲の壕」で最期を悟った女学生たちは自決も覚悟していました。そんな女学生達に隊長であった「小池勇助」軍医少佐は「生き残るのは恥ずべきことではない。決して死なずに生き残って親元に帰り、戦争の実情を銃後の人達に伝えてほしい」といいます。
周囲の戦闘が落ち着くと学徒隊を解散し、米軍の捕虜となるよう女学生を送り出した後、小池隊長は自決します。
送り出された女学生らは捕虜となり、23名が生き残ることになりました。