P基地
今回は広島県呉市倉橋町に残る「P基地跡」だべ
対岸の大迫集落に「Q基地」がありました!
広島県呉市の倉橋島東部に大浦崎公園という公園があります。
現在は市民の憩いの場となっている大浦崎海岸ですが、かつては特殊潜航艇「甲標的」が造られた工場が建ち並び、甲標的搭乗員の養成訓練も行われていました。
特殊潜航艇「甲標的」は、潜水艦よりも小型で2人乗り、2門の魚雷を装備していました。
潜水艦に取り付けて目標地近くまで運ばれ、その後潜水艦から切り離されて隠密に敵に接近、魚雷を撃ち込んだのち、艦を自爆して搭乗員のみ再度潜水艦に拾ってもらうという兵器でした。
甲標的が初めて使用されたのは、太平洋戦争開戦の火蓋をきった「真珠湾攻撃」で、5隻の甲標的が真珠湾に出撃、搭乗員10名のうち9名は死亡し軍神として崇められました。
残り1名の搭乗員「酒巻和男」海軍少尉は米軍捕虜となりましたが、長らくその事実は公にはならなかったようです。
特攻基地大浦崎(P基地)
現地案内看板より引用
昭和17年10月極秘裡に工場の建設が始められ、よく18年3月操業開始。
これが特殊潜航艇「甲標的」制作専門の呉海軍工廠分工場であった。
また時を同じくして搭乗員の養成が始められ、受講者は艇長艇付合わせて約2600名、内、戦死者は439柱に及んだ。
当基地の任務は甲標的の生産、搭乗員の養成、特攻兵器の研究・開発で昭和20年になると甲標的丁型(蛟龍)の完成をみ、一方回天(人間魚雷)も実用段階に達して来るべき本土決戦に備えたが、同年8月15日終戦をむかえて基地は廃止され現在では平和な公園、町民いこいの場所となっている。
平成4.2建立
P基地跡地をよく見てみると、道端にレンガ遺構であったり、壕を塞いだ跡、レンガ造りの建物を見ることが出来ます。
P基地では搭乗員の養成を行っていたわけですが、搭乗員候補生が増加してくるとP基地のみでは手狭になってきます。
そのため、海を挟んで対岸にある「大迫集落」にも訓練地・搭乗員の宿舎が設置されました。
大迫周辺では水陸両用戦車「特四式内火艇」の訓練が行われていましたが、徐々に特殊潜航艇の訓練に移り変わっていきます。
大迫の地は、P基地と対を成す存在として「Q基地」と呼ばれました。