✅作られた島
端島は元は瀬でしたが炭鉱開発のために6回に及ぶ埋め立て工事によって、埋めたてにより周囲は1.2㎞・面積は約6.3haあり、南北に細長く長さ約480mで幅約160mの島となりました。当時、三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから別名「軍艦島」とも呼ばれ、島全体が護岸堤防で覆われ要塞のような人工島になりました。この端島炭鉱の石炭はとても良質で、隣接する高島炭鉱とともに八幡製鐵所の製鉄用原料炭として供給し、日本の近代化を支え続けてきました。
また石炭出炭量の増加に比例するように島は急成長を遂げ、1960年(昭和35年)には5,267人が住んでおり、当時の人口密度はなんと世界一といわれ、東京の人口密度の9倍以上とも言われるほどでした。
✅高収入で充実した暮らし
居住者数は最盛期の1960年には約5000人にもおよぶ人々が暮らしており、東京以上ともいわれる脅威の人口密度を誇っていました。そんな過密な島内には、病院や学校・保育園・寺院・神社・派出所・理髪店・市場などの生活に必要不可欠な施設が立ち並んでおり、島の施設だけで生活はささえられていました。また娯楽施設も映画館、劇場、スナック、パチンコ屋、遊郭さえもあったといいます。しかし狭い島の半分以上は鉱場であり、その隙間隙間に住居や施設を造ったために建物と建物の間はとても狭く、階段が入り組み様々につながっている迷路のような造りになっていました。そんな狭い島でも、島民達はお祭りや学校などを通して島全体が家族のように仲良く暮らしていたようです。
また、炭鉱労働者は海底炭鉱での仕事という危険な仕事ということもあり、所得水準も高く大半の家庭が都会でも珍しい’’コンクリート製の高層マンション’’に暮らしていました。またカラーテレビの普及率も他では平均10%ほどの時代であるのに、軍艦島ではテレビはもちろんのこと、テレビを含めて’’三種の神器’’と呼ばれていた冷蔵庫と洗濯機の普及率もほぼ100%でほぼ全家庭の人が所有していました。趣味などの娯楽は前述したパチンコや映画館の他、土地が無い為にベランダで植物栽培を行ったり、生け花教室などもあったようです。仕事はかなりの危険が伴っていますが、それに見合う給料と生活があったので居住者は増え続けたんですかね。
✅離島ならではの「島の水事情」
十分な収入と都会よりも進んだ不便の無い生活。これだけ聞くといいことばかりに思えるかと思いますが、’’離島’’であることや敷地面積が工場と住居であることから’’水問題’’がつきまとっていました。端島には溜池・貯水池・湧き水というものがほぼ皆無であり、島民は製塩工場から出る蒸留水と給水船によって生活用水をまかっていました。しかし、乱天によって給水船が欠航となった場合は蒸留水だけではとてもまかないきれない為、飲み水など必要最低限のみに制限されました。
水も蛇口を捻ると出てくるという訳ではなく、三菱より支給された「水券」と引き換えに水を汲める仕組みになっていました。汲んだ水を各家庭がタンクに入れるという訳ですね。1950年代中ごろになるといよいよ給水船と蒸留水だけではまかないきれない人口になってきます。そのため、対岸の野母半島と端島に海底水道管を通す工事が行われ、水道管が通ると’’蛇口を捻ると水が出る’’という生活をすることができるようになったそうです。