今日のスポットは読谷村にある農林隊構築壕跡だべ
ポチ太郎
ハチ公
現在は穴の跡が残っています!!
「道の駅かでな」の交差点から野球場方面に進み、橋を渡るとすぐに左側に駐車場があります。
この駐車場に入っていく道の途中、横にそれていく歩道があります。また、鉄塔もあるので目印になります。
鉄塔の方向へ歩道を進んでいくと畑が広がっていて、突き当たるまで進むと農林隊構築壕があった場所に到着します。
戦前、沖縄県立農林学校が嘉手納にはあり、近隣から優秀な学生が通っていたといいます。
卒業生の回顧録には
「みんなきちんとした制服を着け、白いゲートルで颯爽とした、その姿はどの顔も賢そうで頼もしく、子供心にもあこがれの的であった。」
ともあり、入学試験を合格した学生らは一目置かれた存在だったのでした。
しかし、戦争が進むにつれて留守宅家族の農業補助などの勤労奉仕に当たるようになってきました。
勉学に励むことも難しくなり、座喜味城での高射砲陣地の構築や楚辺~波平間の洗車壕堀り、ウマカジー(現米軍基地内)の陣地構築、防空壕の構築や軍事教練などに週の大半の時間が割かれるようになりました。
後に沖縄県農務課によって「農兵隊」が作られます。
食料の増産のための訓練を受け、約50人の小隊に分かれて沖縄全土に分散し米軍上陸前まで活動していました。
1945年3月の米軍上陸時には鉄血勤皇農林隊が結成され、130名の学徒が動員されます。
本隊の110人は比謝川沿いの壕に配置され、残りの20人は切込部隊となります。