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掩体壕
今回は千葉県館山市宮城に残る「掩体壕」だべ
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掩体壕は飛行機を空襲から守るシェルターです!!
房総半島の南端にある千葉県館山市の赤山地下壕から約10分ほど歩くと館山海軍航空隊の掩体壕があります。
掩体壕(えんたいごう)とは、飛行機や装備や物資、人員などを敵からの爆撃から守るために造られた収納庫で、爆撃でも壊れないように分厚いコンクリートで固められています。
また、空から見て掩体壕とわからないように草木を被せたりしてカモフラージュしていました。
現在は住宅と田んぼが入り混じる長閑な風景ですが、そんな中に掩体壕が異彩を放っています。
戦中、館山市は太平洋に面していることから要衝とされていました。
掩体壕の他にも「鬼の館砲」と呼ばれた館山海軍砲術学校であったり、洲崎海軍航空隊が使用していた射撃場、特攻兵器「震洋」の基地、飛行機の部品・弾薬・食料・燃料などを保管するための倉庫などさまざまな建物がつくられました。
現在では見ることが出来ないものも多く、掩体壕も40以上存在していましたが現在は二つしか見ることができなくなっています。
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忘れてはいけない戦争の名残
案内看板「花海街道 赤山のみち」より引用
掩体壕
東京湾入口にある館山は、かつて首都・東京を守る軍事的な要衝でした。関東大震災による隆起で、海岸線から沖ノ島と高ノ島の間が浅瀬となり、そこを埋め立てて館山海軍航空基地が設置されました。敵機から戦闘機を守るための格納庫を掩体壕といい、戦争末期に学生や住民、兵士たちによって多数造られました。かつては赤山周辺だけでも10基余りありましたが、現存するのは一基のみです。
この一基はここの近くにあるので是非探してみてください。
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