黒しばわんこの戦跡ガイド

首里城内にある「ガマ遺構」と「留魂壕」

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ガマ遺構と留魂壕

名称 ガマ遺構,留魂壕
住所 〒903-0812
沖縄県那覇市首里当蔵町
解説 首里城公園内の「東のアザナ」崖下に「ガマ遺構」として公開されている。
かつてはガマ遺構を挟むように「留魂壕」があったが、ガマ遺構左側の留魂壕は埋没している。
名前の由来は’’吉田松陰’’の「留魂録」。
戦時中、留魂壕の中で陣中新聞が発行されていた。
難度
A



今日は沖縄県那覇市首里当蔵町にある「ガマ遺構と留魂壕」だべ
ポチ太郎
ポチ太郎

ハチ公
ハチ公
首里城公園の「東のアザナ」の真下にあります!

首里城の有料エリアの中に標高140mの位置にある物見台である「東のアザナ」があります。
琉球王朝時代、城内に時刻を知らせる役割をになっていました。

そして、その東のアザナの真下にあるのが「ガマ遺構」「留魂壕」です。
同じような横穴ですが、構築された時代が違っています。

ハチ公
ハチ公
「東のアザナ」は「アガリノアザナ」と読みます!

ガマ遺構と留魂壕は隣あって存在していますが、構築年が違っています。
ガマ遺構の出土品は古くは15世紀(1400年代)から20世紀(1900年代)までの物で、そのことからグスク時代から存在していた痕跡があります。

✅ガマ遺構

一方で「留魂壕」が構築されたのは20世紀半ばの太平洋戦争中でした。
「鉄血勤皇隊」として動員された沖縄師範学校の生徒らによって構築されました。
名前の由来は幕末の長州藩出身で松下村塾にて教育を行っていた思想家「吉田松陰」が、安政の大獄により捕らえられた獄中の中で執筆した「留魂録」から引用しているようです。

上記した「ガマ遺構」を挟むように2つの壕が構築され、ガマ遺構とは内部で連結されます。
構築したガマでは鉄血勤皇隊の教師や生徒の他に、現:琉球新報となっている「沖縄新報」がガマ内で陣中新聞を作成するのに利用されました。
そのためガマ内部で発見された遺品の中には、新聞を作成するのに使用された活字も発見されています。
活字の文字は「戦」などの時勢を象徴したような文字もみられました。

✅留魂壕

✅埋没したもう一つの留魂壕

ガマ遺構【Gama Remains】

崖地の下部に見える石積みの奥には、人力でつくられた洞窟状の遺構(以下、「ガマ遺構」という)があり、周辺の遺構と共に出土状況をそのまま展示しています。
このガマ遺構は18世紀初頭に作られた古絵図に描かれておりますが、琉球王国の正史には記録がありません。
その形態は、浦添市にある「浦添ようどれ(琉球王国の陵墓)」とよく似ています。
また、この遺構は「ウシヌジガマ」と呼ばれ、首里王府の女官達が息抜きの場として使われたという伝承があります。
ここから出土した遺物から、グスク時代(15世紀)から近代(20世紀)まで使われていたことが分かっています。

前面に見える切り立った崖地も人力で作れています。
崖地の左側上部の石積付近では、厭勝銭(魔除けやまじないを目的とした金銭)1枚が出土しています。

ガマ遺構を囲むように、先の大戦中に師範学校の生徒達が掘った留魂壕がありました。
また、この一帯に2カ所の御嶽(琉球の信仰における祭祀などを行う施設)があった可能性が指摘されています。
Behind the stone masonry at the bottom of the precipice are remnants of a cabern-shaped manmade structure(hereinafter called ”Gama”),on display in the condition they were discovered.
The Gama appears in an old illustratibe map drawn in the early 18th Century,but is nowhere to be found in the official records of the Kingdom of Ryukyu.
its shape is very similar to the Urasoe Yodore(the royal mausoleum from the king-dom era)inUrasoe City.
Other artiifacts unearthed from this site indicate that the Gama was in use from the Gusuku era(15th Century)to the MOdern period(20th Century).

【ガマ遺構案内板より引用】

留魂壕の構築は第32軍司令部壕と並行して行われました。
第32軍司令部壕の構築は1944年12月頃から開始されているので、留魂壕もその時期に構築したようです。

長さ23.4m×幅4.5m×高さ1.8mの防空壕が約二か月で完成しました。
第32軍司令部壕は約1000m余りの壕を約三か月で構築しており、比較してみると司令官が使用する防空壕だけあって構築速度などは桁違いです。

内部には首里城周辺の破壊された家屋から廃材を持ち寄って壕内に2段寝台を作ったり、畳を持ち寄って使用していました。
壕入口付近には炊事場、少し離れた場所をトイレとしました。

折角構築した留魂壕でしたが、1945年5月には放棄されたようです。

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