館山海軍砲術学校跡
今回は千葉県館山市佐野にある「館山海軍砲術学校跡」だべ
「鬼の館砲」と呼ばれる厳しい学校でした!
館山駅から国道410号を南下していく途中、周りは田んぼと点々とある住宅の中にかつて「鬼の館砲」と呼ばれていた「館山海軍砲術学校跡」があります。
現在、この場所には建物などは残っておらず、記念塔等があるのみとなっています。
しかし、この場所から北側に炊事場として使われていた建物の遺構が残っています。
館山海軍砲術学校は陸戦と陸上防空の教育訓練を目的に、1941年6月1日に横須賀海軍砲術学校の分校としてに館山市郊外の神戸村佐野(現館山市佐野〉に開校しました。
隣接する平砂浦が演習場として使用され,陸戦隊の幹部候補の養成を目的としていました。
兵科は,「陸戦科」・「対空科」・「化学兵器科」に分かれ,教育を受けた兵科予備学生は,一期~五期までで陸戦科1,348名,対空科2,444名,化学班249名となっています。
予備学生のほかに普通科練習生,高等科練習生,陸戦隊および防空隊の新編部隊,さらに指揮官の教育訓練など,内容は多岐にわたっていました。
教育内容をみると,陸戦科では,平砂浦演習場において攻撃や防御,水陸両用戦車などの教育訓練を中心におこなわれました。
「鬼の館砲」とよばれるほど日夜にわかたぬ猛特訓を受けており、卒業後は北はアリューシャン列島、南はジャワやニューギニア島など太平洋の各地戦場に赴き、学んできた陸戦技術と技能で戦いました。
太平洋戦争初期の段階では敵前上陸や橋頭堡襲戦闘などを主とする戦闘訓練に力がいれられていましたが,戦局の悪化とともに対戦車訓練・夜間挺身奇襲戦闘など実戦に備えた訓練に重点が移っていきます。
学校の西側と東側の丘陵上には高角砲の砲台が構築され,対空科はここで,高射射撃指揮と砲員の操作訓練を行いました。
1944年,房総半島が本土決戦の重点地域になると,館山海軍砲術学校は「館山警備隊」となりました。そして砲台構築に力を注ぎ,対空防備の拡充に全力を傾けるようになる。訓練は陸戦と対空のみにしぼられ,短期養成の士官を次々と前線に送っていきます。しかし,終戦間際の1945年7月にはアメリカ軍の本土上陸地点と想定されたため、訓練場所としては不適切とのことで学校は閉鎖されます。
戦後は施設跡を利用し房南中学校が開校します。旧兵舎は1969年まで校舎として利用されていました。中学校の東側にはパラシュート降下訓練用プールとボイラー室が残り,また裏山には,高角砲跡・格納庫跡が残っています。