名称 | 忠魂碑(チュウコンヒ)・奉安殿(ホウアンデン) | |||
住所 | 〒904-2143 沖縄県沖縄市知花34 | |||
解説 | 児童園の中に忠魂碑と奉安殿が残っている。駐車場もあり、児童園に入らずに見学可能。外部に掃射痕がある | 難度 | ||
A (行きやすい) |
沖縄県沖縄市知花に「美さと児童園」という児童センターがありますが、その敷地内に奉安殿と忠魂碑があります。
この二つの史跡のために乗用車二台ほどですが駐車場も整備してあり、児童園に入らずとも見学することができます。
奉安殿は天皇・皇后の御真影と教育勅語を保管した建物です。児童生徒はその前を通るたびに最敬礼をするよう教育されました。また、職員は御真影を厳重に保管する義務があるとされており、破損や盗難があると懲戒処分されることもありました。
1930年代、政府は御真影保管を徹底させるため、全国に奉安殿の設置を奨励しました。
この奉安殿は、1935年前後に美里尋常小学校敷地内に建立されたものです。各祭事の際には全校生徒と村の関係者は奉安殿前に整列し、村長が御真影と教育勅語を取り出して、教育勅語を読み上げる間、参列者は頭を下げて聞き入っていたそうです。
太平洋戦争後の1945年12月15日、GHQが「神道指令」を発令し、日本全土の奉安殿は解体されていきました。沖縄は「神道指令」は発令されませんでしたが、1946年9月3日、志喜屋民政府知事が沖縄本島の各市町村長に対して奉安殿を撤去するように通達し、沖縄本島各地の奉安殿は破壊されていきました。
戦後この一帯は、アメリカ軍がキャンプ・ヘーグとして利用しており、奉安殿を撤去することがなかったため、ほぼ建立当初の状態で残っていました。奉安殿内部には、英字が書かれていて、アメリカ軍が倉庫等として使っていたと思われる形跡もあります。外壁には戦時中に受けたと思われる銃痕が残っており、現在も確認することができます。
1977年の基地返還後は、忠魂碑と共に撤去する動きがあったそうですが、歴史をしめす資料として撤去されず保存されました。
現在の沖縄県に残っている奉安殿は沖縄市を含め4カ所です。
忠魂碑と共に現存している事例は沖縄市だけとなっています。
戦前・戦時中・戦後それぞれの社会状況をうかがうことのできる貴重な文化財です。奉安殿案内看板より
✅奉安殿
✅奉安殿(正面)
奉安殿には天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語が納めてあることから、児童や生徒は前を通るだけでもきちんと服装を正した上で最敬礼することを求められました。
祝祭日等の諸儀式には「国歌奉唱」や「勅語奉読」が義務づけられていました。
また、火事などの有事の際には学校職員は御真影と教育勅語を守らなくてはならず、御真影を守ろうとした学校長が逃げ遅れ死亡するなどのこともあったそうです。
美さと児童園の奉安殿は鉄筋コンクリート製の重厚なデザインですが、奉安殿のデザインは時代と場所によってまちまちで、様々なバリエーションがありました。
1930年初めにはベスト奉安殿デザインコンテストのようなコンペも開催されたそうです。
地震や耐火性もあり、見た目も重厚なデザインの奉安殿も「湿気」という弱点があり、御真影にシミができて学校が始末書を提出するということもありました。
✅機銃掃射の跡
✅奉安殿近くに残る「忠魂碑」
奉安殿と共に現存しているのが「忠魂碑」です。
学校や役場の敷地内であったり、公共の場所に建立された碑で、戦争で亡くなった兵隊さんのための碑でした。
一方で陸軍記念日などの日には、住民を集めて’’国威発揚’’と’’忠君愛国’’の思想を強くするための役割もありました。
日清・日露戦争の時代から造られ始め、古い忠魂碑は自然の石に’’忠魂碑’’と掘ってある簡素なものでしたが、新しいものになってくると砲弾型だったり階段付きの台座がついていたりと大規模なものになっていきます。
この忠魂碑があった場所は、旧美里村の在郷軍人会の集会所にあたる場所だったためで、「忠魂碑」の揮毫(掘られている文字)も帝国在郷軍人会の会長であった井上幾太郎による物です。
✅忠魂碑
忠魂碑は天皇に忠義と忠誠を尽くして戦争で犠牲となった兵士の魂を慰め、顕彰する目的で建てられた石碑です。始まりは、明治維新の内戦で天皇軍の戦死者を殉難者として祀った招魂碑で、日露戦争後に全国各地の学校や役場の敷地内に建てられていきました。当時の文部省は、忠魂碑を学校敷地に建てることで、児童生徒に軍人の忠勇を永く伝え、忠君愛国の精神を養成することができるという忠魂碑の教育的価値も示していました。
この忠魂碑は1937年に美里尋常高等小学校敷地内に建立されました。慰霊祭などには、当時の美里村の人々がこの場所に集まって拝礼したそうです。また、日中戦争の時は村の人から戦死者が出るたびに葬儀が行われていました。
沖縄の多くの忠魂碑は沖縄戦によって破壊されました。
太平洋戦争後の1945年12月15日、GHQが「神道指令」を発令し、これを受けて内務省が全国の忠霊塔・忠魂碑等の破壊を命じたため、日本全土の忠魂碑のほとんどが破壊されていきました。しかし、米軍統治下に置かれていた沖縄には、GHQの制度は適用されませんでした。
戦後この一帯はアメリカ軍がキャンプ・ヘーグとして利用しており、忠魂碑を撤去することがなかったため、ほぼ建立当初の状態で残っていました。
1977年の基地返還後は、奉安殿と共に撤去する動きがあったそうですが、歴史を示す資料として撤去されず保存されました。
これらは戦前の日本の軍国主義思想のシンボルであり、現在では当時の思想を物語る重要な戦跡となっています。
沖縄県内において奉安殿と共に現存している事例は沖縄市だけで平和を考えるうえでも貴重な文化財です。忠魂碑案内看板より
✅神道指令とは
1945年12月15日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書の通称で、「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」が正式名称です。
現在では当たり前である信教の自由を確立することや、国家による強制的な神道信仰の廃止、神祇院(じんぎいん)を廃止することによる政教分離の確立することなどの目的で出されました。
かつての日本でも大日本帝国憲法によれば信教の自由については記載されていましたが、政府の見解では「神道」はキリスト教などの宗教とは別格であり、そもそも宗教ではない・宗教を超越したものというものでした。
当時の信教の自由は「臣民の義務に背かないかぎり」といった条件のもとに認められていました。出来た頃の見解では「神道」にとっての聖域「神社」への崇拝は義務ではないと考えられていましたが、年月が経つとそれすらも義務という考えも唱えられてきたため、キリストを神として完全一信教のキリスト教などから異議が唱えられてきました。
更に時代が進むと、学校においての宗教教育も禁止され、宗教ではないとされた「神道」は教育の基礎とされ「教育勅語」も示されました。「神道」が根本におかれた「教育勅語」は国民道徳の基本とされ、人々の中に溶け込んでいきました。
知らず知らずのうちに「神道」は日本人の中に根付いていったのです。
こうした日本人に押し付けられていた「神道」を排除するために行われたのが「神道指令」です。
また、政府機関にも神祇院という神社関係の機関があったので、政教分離の考えの下にこれを廃止し、現在では民間の宗教法人がこの役割を引き継いでいます。