名称 | ニーバン・ガズィマール | |||
住所 | 〒905-0504 沖縄県国頭郡伊江村字西江前 |
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解説 | 伊江島の住宅街に残る大きなガジュマルの木で、戦中・戦後を通した2年間を敗戦を知らない日本兵2名が木の上で暮らしていた。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
✅ニーバン・ガズィマール
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伊江島に「ニーバン・ガズィマール」と呼ばれるガジュマルの木があります。
かつて行われた太平洋戦争の敗戦後、敗戦の事実を知らずに2名の日本兵が「ニーバン・ガズィマール」の上で暮らしました。
食料の調達などを深夜に行い、約2年間の樹上生活をしました。
ニーバン・ガズィマール
太平洋戦争で、うるま市出身の佐次田秀順さん(当時28歳)と宮城県小林市出身の山口静雄さん(当時36歳)の二人の日本兵は、母国の敗戦も知らずに戦中、戦後の2年間(昭和20年4月~22年3月)、米兵の目を逃れて 『ニーバンガズィマール』での樹上生活を送った。
厳しかった樹上生活の様子は、真鍋和子著(1991年発刊)の「ぬちどうたから 木の上で暮らした2年間」に記されている。
「ニーバンガズィマール」のニーバンとはガズィマール(樹木)のある宮城家の屋号である。
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✅小野田 寛郎(オノダ ヒロオ)
小野田 寛郎は、陸軍のスパイ養成学校であった「陸軍中野学校」の二俣分校を卒業した情報将校です。
こうした情報将校は敵地にスパイとして潜入し、情報を集めたりビラを拡散して敵国の内部分裂を狙ったり、民間人に扮してゲリラ戦を行ったりします。
戦中、フィリピンのルバング島に着任しましたが、上陸してきた米軍の火力に負けて山間部に逃げ込みます。
1945年8月になり遊撃戦を続けるが、任務解除の命令がないことから赤津勇一(一等兵)・島田庄一(伍長)・小塚金七(上等兵)と共に作戦の続行を決意、終戦を知らぬまま山間部での生活を継続します。
共に行動していた赤津は投降、残り二名は死亡し、一人になっても1974年まで作戦を継続します。
作戦終了のきっかけとなったのは「鈴木紀夫」という冒険家で、小野田の捜索活動に触発されてルバング島を訪れて交渉を行いました。
生きて帰ってきた小野田はブラジルに渡って牧場主となりました。
✅横井庄一(ヨコイ ショウイチ)
陸軍軍人として1944年にグアムへ配属されます。
激戦であったグアムの戦いにより「戦死」として公報されていましたが、実は自家製の洞穴で生存していました。
魚を捕まえる為に罠を仕掛けにいったところを地域住民に発見され、配属から28年後の1972年に57歳で日本に帰還しました。
帰還の際の発言が注目され「恥ずかしながら帰って参りました」などが世間をにぎわしました。
その後、病死してしまいますが、生前住んでいた住居の一部が記念館となっているようです。