名称 | 魂魄の塔(コンパクノトウ) | |||
住所 | 〒901-0335 沖縄県糸満市字米須1437付近 |
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解説 | 1946年に真和志村民により建てられた、米須霊園内にある慰霊塔。米須や摩文仁周辺で発見された遺骨約3万5千柱を祀る。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
沖縄県の中でも南部にある米須や摩文仁周辺は、沖縄戦終盤では激戦地になりました。
そのため、戦争終了後には多くの遺体や遺骨が散乱しておりました。
それらを集めて納めたのが「魂魄の塔」で、約3万5千にも及ぶ遺骨が納められています。
終戦後の1946年、現在では那覇市の一部となっている’’島尻郡真和志村’’の住民は、駐留する米軍から自分の家に帰ることが認められずに現在の糸満市米須地域への引っ越しを命じます。
しかし、そこには終戦してもなお悲惨な光景が広がっていました。
沖縄県における地上戦は、中部の読谷村付近から米軍が上陸して徐々に北部と南部へ侵攻していきました。
劣勢となった日本側は現在の首里城の地下にあった第32軍司令部を放棄、軍は更に南部に撤退していきます。
1945年頃には日本全体でも物資は不足しており、対する米軍側はどんどんと補給物資が送り込まれ勝ち目は無くなっていました。
南部に追い込まれた兵隊と一般人が入り混じり、’’鉄の暴風’’とも表された弾丸の雨の中を逃げ惑い亡くなりました。
そういった経緯もあり、糸満市米須や摩文仁には終戦後も多くの遺体や遺骨が散乱していました。
移住してきた真和志村住民がそれらを現在の山城海岸に集めて祀ったのが「魂魄の塔」であり、これは沖縄県初めての慰霊塔と言われています。
当初は500柱ほどでしたが、最終的には約3万5千柱の遺骨が祀られる慰霊塔になります。
現在では遺骨は国立沖縄戦没者墓苑に移されていますが、近親者がどこで亡くなったのか分からない遺族の方々が魂魄の塔へ足を運んでいます。
✅魂魄の塔
形は円形、側面には石がはめられています。
その上には「魂魄」と書かれた石碑が置かれます。
✅金城 和信(キンジョウ ワシン) 真和志村長
真和志村住民と共に遺骨収集に注力したのが、真和志村長であった「金城和信」でした。
遺骨収集を米軍側に交渉しにいったところ、当初は難色を示されましたが最終的に許可を貰い遺骨収集を開始しました。
また、彼自身も2人の娘をひめゆり学徒隊で亡くしています。
「魂魄の塔」だけでなく、ひめゆり学徒隊最期の場所を調べて「ひめゆりの塔」、男子生徒で編成された鉄血勤皇隊についても「沖縄師範健児の塔」を建立しました。
この胸像は魂魄の塔の傍らにあります。