最期の地、旧海軍司令部壕
那覇からほど近い、小禄地区と豊見城市の境にあるのが「旧海軍司令部壕」です。戦中の沖縄における日本陸軍の司令部の最後の場所は糸満市の摩文仁の丘(マブニのおか)ですが、海軍司令部の最後の場所は旧海軍司令部壕になります。この壕は小高い丘の上にあり、戦中は74高地と呼ばれていました。
そして指揮を執っていたのが大田實少将(死後中将に昇格)です。この方はどういう方かというと、11人の子持ちで子煩悩な父親という面と、海軍軍人としては米軍に壕の周囲を包囲されてもなお軍人として戦い抜きました。そして、この方の海軍次官への最後の電文にも人柄が見えてきます。「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という電文です。これはもっと長い電文で、旧海軍司令部壕跡で仁愛之碑から見ることもできますし、googleで検索することでも見ることができます。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」(私訳)
戦争が始まってからというもの、軍は県民のこと顧みることなく防衛戦に臨んできた。それにもかかわらず、沖縄県民は戦争によって家や家族を失っても軍の邪魔にならぬように行動し、砲弾や銃弾が飛び交う中を身を小さくして生き抜いている。青年・壮年は防衛のための招集に進んで応募し、女性は看護婦として身を捧げている者や、炊事や砲弾運び、爆弾を抱えて飛び込むことを申し出る者までいる。衛生兵に見放された重症兵士を真面目に看護し続ける様子は、一時の感情に流されて行っているとは思えない。さらに、軍の作戦の変更により遠く離れた場所に移動を命じられても文句を言わずに雨の中を歩いて移動している。沖縄は草や木の一本も残らない焦土と化してきている。食料も6月を乗り切ることで精いっぱいである。沖縄県民はこのように戦い抜いた。後世、沖縄県民に特別の配慮をしていただくことを願う
この故の電文を自決前に送っています。そして最期の時、壕内において幕僚と共に散っていきました。戦中の決別のメッセージでは「天皇陛下万歳」などといった物が多かった中でこのような文章を残していった方は珍しいと思います。もちろん、「天皇陛下万歳」などの文章が悪いわけではありません。当時は戦争中で今の常識とは違いますので、当時の常識で考えないといけないと思います。そのような中で上記のような電文を残したことで、沖縄県民はどれほど救われたのか想像に耐えます。このような方や先代の沖縄県民の方々のおかげで、私も含めて多くの方が観光や住むことができているということ、忘れていってはいけないと考えます。
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