大田實中将の顕彰碑
今回は千葉県長生郡長柄町にある「大田實中将の顕彰碑」だべ
顕彰碑の隣に生家があるそう!
沖縄での地上戦において、旧日本海軍の沖縄方面根拠地隊の司令官だったのが「大田實」海軍少将(死後海軍中将)です。
地上戦が始まって約2ヵ月半の6月13日、現:豊見城市豊見城にある海軍司令部壕にて自決しました。
自決前に海軍次官に送った「沖縄県民斯く戦えり」は広く知られています。
沖縄県民斯く戦えり
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ沖縄県民斯ク戦ヘリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%AE%9F
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
大田實中将が生まれたのは、千葉県長生郡長柄町です。
現在、生家には顕彰碑が建立されています。
礎四位勲二等功一級
顕彰碑より引用
海軍中将 大田實 顕彰碑録
大田實君は明治24年4月7日父彌三郎母及ぶの次男として長柄町高山に生る。大正2年海軍兵学校を卒業後陸軍歩兵学校において歩兵戦術を習得、海軍陸戦の権威であった。昭和7年上海事変nには上海陸戦隊大隊長として出征同14年海南島攻略陸戦隊指揮官、同17年ミッドウェイ攻略陸戦隊指揮官次いで連合陸戦隊司令官としてソロモン方面作戦に殊勲をたてた。昭和20年1月戦局愈々急を告げるや選ばれて佐世保警備隊司令官から沖縄方面根拠地隊司令官となり、部下1万名を指揮し、陸軍10万を率いる第32軍牛島満司令官と一体となり軍官挙げて沖縄の防衛に任じ米軍の重囲の中に善戦敢闘70余日再三の転進懇請にも拘らず、那覇南方小禄の海軍陣地を死守し遂に昭和20年6月13日午前1時
「身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも守り遂ぐべし大和島根は」
の辞世を口ずさみ残存部隊に後事を託し礎容として自決された。特に6月6日夜発信の「沖縄県民カク戦エリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と訴えた切々の悲願は世界戦史上不朽の電文であり、終戦後27年沖縄県の祖国復帰に伴い本土の人々の心を南方同胞援護に向かわせる指標となっている。好文威武 聖戦の必勝を祈念して祖国のため一身を捧げられた郷土の先覚者大田實君の功徳を偲んで永久に顕彰を讃ふるものである。
昭和48年6月13日
級友 日本国防協会長 保科善四郎