名称 | 下山事件 | |||
住所 | 東京都足立区 常磐線線路上 | |||
解説 | 国鉄三大ミステリー事件(下山事件・松川事件・三鷹事件)の内のひとつ。 1949年、国鉄総裁であった下山定則が失踪し、その後に常磐線北千住-綾瀬駅間の線路上にて轢死体として発見された事件。 自殺説・他殺説があり、犯人も分かっていない未解決事件。 |
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「下山事件」は1949年に旧国鉄常磐線北千住-綾瀬駅間にて、国鉄総裁であった「下山定則」の轢死体が発見された事件であり、「国鉄三大ミステリー事件」ともいわれています。
この「国鉄三大ミステリー事件」は他に「三鷹事件」・「松川事件」があり、共に1949年に発生しています。
下山定則国鉄総裁が発見された場所には追憶碑が建立されましたが、開発などにより場所が移転されています。
下山事件が発生した時代は、戦後まもなくで日本全体が混乱していた時期でした。
当時、日本はGHQの下、占領政策が行われていました。
日本経済の再生・自立のため、アメリカからジョゼフ・M・ドッジが日本に派遣され財政政策の指導を行います。
この経済安定政策を「ドッジ・ライン」と呼び、この緊縮財政政策に関連して「行政機関職員定員法」が施行されます。
これは公務員の大規模リストラ政策で、国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人の人員整理を求めました。
従業員側から見てみると、この時期に中国においては国共内戦が共産党側がほぼ勝利を確実にしており、日本国内にも共産党の考えに賛同する党員やシンパが増加してきました。
国有鉄道は終戦後に帰国した兵隊らの就職先の受け皿になっている面があったので、莫大な数の従業員がいました。
もちろんその中にも共産党に賛同する者もおり、労働組合を中心に人員整理への抵抗と打倒吉田茂内閣が叫ばれます。
そして、日本国有鉄道(国鉄)のトップだったのが「下山定則」でした。
日本国有鉄道は1949年6月1日に発足されたばかりで、この下山事件は約一か月後の1949年7月5日に発生しています。
下山自身も総裁に就任したばかりで、人員削減を求める政府と抵抗する労働者の板挟みの中にいました。
そういった状況の中で起きた事件であったため、鬱による自殺説や他殺説など様々な意見がされています。
✅下山国鉄総裁追憶碑
✅下山事件
1949年7月5日の朝、公用車で家を出た国鉄総裁の下山定則が失踪します。
出勤途中には運転手に、開店前の「三越」や「千代田銀行」(現:三菱東京UFJ銀行)に立ち寄らせ、最後には三越へ一人で行く姿を最後に姿を消しました。
その後に国鉄本社へ出勤しないことを不審に思った秘書が自宅に連絡、「公用車で出社している」との返答から警察に捜索願いが出されました。
日付が変わった7月6日0:30頃、常磐線北千住-綾瀬間の線路上において下山の轢死体が発見されます。
捜査では「自殺」か「他殺」か、「轢かれて亡くなった」のか「亡くなった後で轢かれたか」で、実況見分した監察医や東大教授と慶応義塾大学教授らで意見が分かれました。
結局、自殺か他殺かの発表もなく捜査本部も解散されることになり、この事件は犯人不明の未解決事件となりました。