名称 | 集団自決跡地 | |||
住所 | 〒901-3501 沖縄県島尻郡渡嘉敷村渡嘉敷 |
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解説 | 国立沖縄青少年交流の家の北側に「集団自決跡地」の碑が建立され、その後ろ側の森林内の沢一帯が渡嘉敷住民の集団自決の現場とされる。 手榴弾による自決から、肉親同士で鎌・鍬・石などで殴るなどで自決した。 |
難度 | ||
A |
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渡嘉敷島の北側に北山(にし山)やフィジガーと呼ばれる高地があります。
現在は「国立沖縄青少年交流の家」がありますが、はるか昔の沖縄戦の時には渡嘉敷住民がこの場所で集団自決しました。
現在、集団自決の跡地には「集団自決」の碑が建っており、実際の現場となった沢も見ることができます。
渡嘉敷村指定文化財 史跡「集団自決跡地」
~集団自決の実相・ここであったこと~
〈1945 年 4 月 2 日 ロサンゼルス・タイムス 朝刊から〉
侵攻軍、日本民間人の集団自殺を発見
「野蛮なヤンキー」の噂で「拷問」より死を選ぶ日本人達
琉球列島、3月29日(遅)(AP)― 米国の「野蛮人」の前に引き出されるよりも自殺する方を選んだ日本の民間人(注.渡嘉敷島の人々)が、死体あるいは瀕死の状態となって折り重なった見るも恐ろしい光景が、今日慶良間列島の渡嘉敷島に上陸した米兵達を迎えた。
最初に現場に到着した哨戒隊に同行した、ニューヨーク市在住の陸軍撮影兵アレキサンダー・ロバーツ伍長は「いままで目にしたものの中で最も凄惨」と現場の様子を表現した。
「我々は島の北端に向かうきつい坂道を登り、その夜は露営した。闇の中に恐ろしい叫び声や鳴き声うめき声が聞こえ、それは早朝まで続いた」と彼は語った。
散乱する死体
「明るくなってから、悲鳴の正体を調べにいくために2人の偵察兵が出ていった。彼らは2人とも撃たれた。その少し前、私は前方6ヶ所か8ヶ所で手榴弾が炸裂し炎が上がっているのを見た。開けた場所にでると、そこは死体あるいは瀕死となった日本人(注.渡嘉敷島の人々)で埋め尽くされていた。足の踏み場もないほどに、密集して人々が倒れていた」。
「ボロボロになった服を引き裂いた布はしで首を絞められている女性や子供が、少なくとも40人はいた。聞こえてくる唯一の音は、怪我をしていながら死にきれない幼い子供達が発するものだった。人々は全部で200人近くいた」。
「細いロープを首に巻きつけ、ロープの先を小さな木に結びつけて自分の首を締めた女性がいた。彼女は足を地面につけたまま前に体を倒し、窒息死するまで首の回りのロープを強く引っ張ったのだ。彼女の全家族と思われる人々が彼女の前の地面に横たわっており、皆、首を絞められ、各々汚れた布団が掛けられていた」。
「さらに先には手榴弾で自殺した人々が何十人もおり、地面には不発の手榴弾が転がっていた。日本兵の死体(注.島人の防衛招集兵)も6体あり、また他にひどく負傷した日本兵(注.同)が2人いた」。
「衛生兵は負傷した兵士らを海岸へ連れて行った。後頭部に大きな V 字型の深傷を負った小さな男の子が歩き回っているのを見た。あの子は生きてはいられない、いまにもショック死するだろう、と軍医はいった。本当にひどかった」。
軍医達は死にかけている人々にモルヒネを注射して痛みを和らげていた、とロバーツ伍長は語った。
負傷した日本人を海岸の応急救護所まで移そうとしている米軍の担架運搬兵らを、道すじの洞窟に隠れていた1人の日本兵が機関銃で銃撃した。歩兵らがその日本兵を阻止し、救助活動は続けられた。質問に答えられるまでに回復した日本人達(注.渡嘉敷島の人々)は、米国人は女は暴行、拷問し、男は殺してしまうと日本兵が言ったのだと通訳に話した。彼らは、米国人が医療手当をし、食料と避難所を与えてくれたことに驚いていた。自分の娘を絞め殺したある老人は、他の女性が危害を加えられず親切な扱いを受けているのを見て悔恨の情にさいなまれていた。
記事引用…沖縄県史 資料編3 米国新聞にみる沖縄戦報道 沖縄戦3(和訳編)
注釈は村教育委員会による。
平成17年11月30日指定 渡嘉敷村教育委員会
✅ハブ防止柵を超えると…
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✅「集団自決跡地」の碑
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記
この台地後方の谷間は去る大戦において住民が集団自決をした場所である。
米軍の上陸により追いつめられた住民は友軍を頼ってこの地に集結したが敵の砲爆は熾烈を極め遂に包囲され行く場を失い刻々と迫る危機を感じた住民は
「生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民としての本分である」
として昭和20年3月28日、祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。
兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつが唯一の頼りで親族縁故が車座になり1ケの手榴弾に20~30名が集った瞬間、不気味な炸裂音は谷間にこだまし清水の流れは寸時にして血の流れと化し、老若男女315名の尊い命が失われ、悲惨な死を遂げた。
昭和26年3月、この大戦で犠牲になった方々の慰霊のため、この地に白玉の塔を建立したが周辺地域が米軍基地となった為に移設を余儀なくされた。
時移り世変わってここに沖縄の祖国復帰20年の節目を迎えるにあたり過去を省み戦争の悲惨を永く後世に伝え、恒久平和の誓いを新たにするためここを聖地として整備し、碑を建立した。
平成5年3月28日
渡嘉敷村
✅碑の後方一帯が跡地になる
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✅跡地入口
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整地されていない森林な上、ハブは水場のカエルを狙うので、ハブには細心の注意を払います。
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滝というには大げさですが、水が流れ落ちています。
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住人手掘りの防空壕も残っているようですが、探してみてもそれらしいものが見つかりませんでした。
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特定の場所でなく、広い範囲が跡地になります。
沢にも降りることはできますが、傾斜もあるので危険です。