ひめゆりの塔から八重瀬方向へ進むと「ずゐせんの塔」があります。
この慰霊碑は「瑞泉学徒隊」を慰霊した塔で、「瑞泉学徒隊」は首里高等女学校の生徒により構成されていました。
「瑞泉」の由来は、首里城の瑞泉門の近くに学校があったからと言われています。
62師団野戦病院(南風原町のナゲーラ壕)に梯梧学徒隊と共に配備されましたが、陸軍の南部撤退と共に識名等を経由して糸満市の伊原や米須の壕へと移動してきます。
移動の時には重症患者にクレゾール液を注射するなど地獄のような場面に遭遇するなどもありましたが、避難していた壕が米軍の馬乗り攻撃にあうなど、他の学徒隊の例に洩れず沖縄戦の地獄に直面した学徒隊です。
✅ずゐせんの塔
ずゐせんの塔は、第二次世界対戦沖縄戦で戦死した沖縄県立首里高等女学校看護隊並に職員同窓会員の御霊を祭ってある。
昭和20年1月25日から軍医の講習を受け、引き続き合宿訓練に入った後、3月27日野戦病院壕で卒業式を挙行、直ちに第62師団、石部隊野戦病院に配属され最前線の浦添から首里、摩文仁へと負傷兵を看護しつつ、泥濘の中を弾雨に叩かれ、奮闘したが惜しくも散華したのである。
✅校章
沖縄県立首里高等女学校の前身は、1897年(明治30年)に設置された「首里区立女子実業補修学校」で、その後変遷を経て、1943年(昭和18年)に「沖縄県立首里高等女学校」に改称しました。
1945年(昭和20年)3月15日ごろ、生徒たちは、新川のナゲーラ壕(元南風原町)にある第62師団野戦病院に設置されました。
4月1日、本当内部に米軍が上陸し戦線が激化するにつれ、負傷兵の数も増加し、4月12日ごろ、前線に近い仲間(現浦添市)に野戦病院の仲間分室が設置され、生徒13名が配置されました。
4月24日には米軍の侵攻に追われるように、仲間分室の生徒はナゲーラ壕や学校内の首里高女分室壕へ退避、5月中旬ごろから首里高女分室壕の生徒もナゲーラ壕へ移動していきました。
5月下旬、米軍は守備軍司令部のある首里まで迫ってきたため、野戦病院は南部へ撤退することになりました。
6月1日の晩、米須の壕(現糸満市)に着いたが、住民や他の部隊が入っていたため、伊原の壕(現糸満市)に移動することになりました。
6月20日頃、解散命令が出されました。23日、米須の壕は馬乗り攻撃に遭い、生徒たちは、壕から外に出て米軍に収容されました。