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八重瀬町字富盛に残る「第24師団第1野戦病院手術場壕」

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第24師団第1野戦病院手術場壕

名称 第24師団第1野戦病院手術場壕
住所 〒901-0402
沖縄県島尻郡八重瀬町富盛
解説 八重瀬岳中腹に残る病院壕。
第24師団第1野戦病院が手術場として使用した場所で、沖縄県立第二高等女学校の女子学生により編成された「白梅学徒隊」がこの場所で勤務していた。
難度
A

今回は沖縄県島尻郡八重瀬町の「第24師団第1野戦病院 手術場壕」だべ

ポチ太郎
ポチ太郎
ハチ公
ハチ公

八重瀬グスクの近くにあります!

沖縄県島尻郡八重瀬町に「八重瀬岳」という丘陵地帯があります。
現在は城址公園として整備された丘陵内に、戦時の野戦病院跡が残されています。

この野戦病院は、「第24師団第1野戦病院」という部隊が使用していました。
第24師団というのは、沖縄本島に配備された第32軍の中の2つの師団(第24師団・第62師団)の中の一つです。
雨宮巽中将が師団長を務め、この師団の最期の地は現在の糸満市宇江城にある「クラガー」という井戸の中とされます。
この第24師団に所属する部隊の一つが「第24師団第1野戦病院」でした。
野戦病院とは戦場の中に構築された病院で戦いで負傷した兵を救護する場所で、沖縄戦での野戦病院は建物に病院を開設せず、自然洞窟や人工洞窟の中に病院機能を展開することが主流でした。

第24師団第1野戦病院は現在の八重瀬公園内にあり、駐車場や公衆トイレの設備が整備されています。
駐車場から壕はすぐ到着し、別の階段をさらに登っていくと八重瀬グスクへと繋がっています。

白梅学徒看護隊之壕
壕付近

第24師団第1野戦病院壕は八重瀬岳中腹にある壕で、「上の壕」「下の壕」がありました。
上の壕は琉球石灰岩を採掘して造られた壕で、
L字型の形状で主に手術室に使用されていました。
下の壕は泥岩(クチャ)を彫り込まれた壕で、
500人程の患者が収容可能であり、第1野戦病院の本部が置かれていました。
現在は本部壕は崩落しています。

本部壕跡地

第24師団第1野戦病院の病院長は安井二郎軍医少佐で、以下軍医・衛生兵186人・陸軍看護婦・補助看護婦 として46名の白梅学徒隊の学生がいました。
「白梅学徒隊」は沖縄県立第二高等女学校という学校の10代半ばの女生徒によって編成された部隊です。

壕内は通路の両側に竹を組んで作られた2段から3段のベッドが置かれ、壕開設当初はアメーバ赤痢や肺結核の患者が収容されていましたが、地上戦が開始されると戦地より負傷者が大量に運ばれてすぐに満床となってしまいました。
そのため、病院壕近辺に新城分院東風平分院が1945年4月下旬頃に開設されています。

戦闘が続く中で病院壕も活動を続けていきますが、現:那覇市の首里城にあった司令部周辺が包囲されると、第32軍司令部・隷下部隊の南部撤退が決定されます。
これに伴って病院壕・分院は1945年6月3日に閉鎖されるのです。
翌日の4日には、白梅学徒隊の解散が宣言されて女学生らは弾雨が飛び交う戦場に取り残されてしまうのでした。

白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)

沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。
1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二四師団第一野戦病院に配置されることになりました。
生徒の仕事は、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯あげ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。
その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。
6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒達はそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。
6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。
国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。

平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課

昭和20年3月6日

県立第二高等女学校在学四年生55名は軍命により軍属となり、第24師団第1野戦病院(山3486)入隊衛生看護教育隊として東風平国民学校で教育を受けた。集中教育で毎日テストが繰り返された。また注射の実施指導も行われた。教育隊の第1班から第3班までは、穂徳高等女学校在学生55名が配置され、第4班から第5班までは第二高等女学校の在学生55名が配置された。第6班は初年兵で構成されていた。

昭和20年3月24日

衛生教育終了。同日夕方白梅隊員は字富盛八重瀬岳にある第一野戦病院へ移動配置された。

昭和20年3月25日~27日

健康上又は家庭の事情で白梅隊員9名帰宅命令。

昭和20年4月下旬

第一野戦病院新城分院開設され、命により白梅隊員5名配置につく。(通称ヌヌマチガマ)

昭和20年6月3日

戦況が悪化し新城分院壕は閉鎖され、隊員5名は八重瀬の本隊へ復帰した。
同日…第一野戦病院本部は戦況の悪化により、富盛の八重瀬岳から糸満市国吉の壕へ後退が決定され、直ちに移動を開始した。

富盛の上の壕
(手術場壕)

L字型の壕入り口に手術室があった。白梅隊員の主な任務は病兵の食事・用便の世話・包帯交換更に手術の手伝い・切断した手足の処理等々であった。

富盛の下の壕
(本部壕)

八重瀬岳中腹に掘られた縦横其々4~5本の入口壕でおよそ500名の患者収容能力があった。その壕には、軍医・衛生兵・看護婦が凡そ190名と、白梅隊員46名がいた。白梅隊の主な任務は、傷病兵の食事・用便の世話・包帯の交換・水汲み汚物の洗濯であった。

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ポチ太郎

ポチ太郎

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