✅戦艦大和
✅戦艦全景
島国が西洋列強に勝つには?
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世界大戦期において、各国が領土を広めようと凌ぎを削っている中で’’日本のような資源の乏しい島国が勝つにはどうしたら良いのか?’’ということが考えられていました。そのためには満州であったり東南アジアなどへの領土拡大をしていくことはもちろん、陸海軍の力を強めていくことでした。過去の日露戦争では、戦艦三笠を中心とした連合艦隊を率いた日本が国力が桁違いのロシアを打ち破りました。その頃からこれからの世界で渡り合っていくために、戦艦を作りまくって海軍の力を強めていき制海権をいかに握っていくかによって国の命運は決まっていくという考えが広まっていきました。
世界でもこの「大鑑巨砲主義」にそって戦勝国が競い合って艦船を作りまくっていく中、その艦船を作りまくっていくこと自体にお金がかかりまくり各国の経済を圧迫していき国家予算を圧迫していきました。そのため、ワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮条約を締結し、イギリスやアメリカを基準として艦船の保有に制限がかけられた上に、戦艦の建造を凍結されてしまいました。また、既存艦を廃艦する事を条件に新造艦を作れることは許されましたが、主砲も16インチ(41㎝)までという制限も加えられました。
この軍縮条約が有効な期間を海軍休日とも呼ぶようです。この条約締結以前に日本は戦艦の’’長門’’の建造を終わらせており、16インチの主砲を装備した’’長門’’と姉妹艦の’’陸奥’’は世界の同クラスの戦艦と合わせて’’ビッグセブン’’と呼ばれました。
✅バルバスバウ
この海軍休日は1936年まで続きました。この条約が無くなった時、世界は再度艦船の建造ラッシュになると考えた時に物量の乏しい日本は圧倒的に不利になってきます。そのため、’’量より質’’ということで世界でも未だ類を見ない46㎝主砲を持つ戦艦「大和」建造の構想が始まり、広島県の呉海軍工廠によって’’大和’’は極秘で作られていきます。
✅艦橋
✅46㎝砲
’’大艦巨砲主義’’の終わり
戦艦’’大和’’は1941年頃には航海試験などが行われるなど、順調に建造は進みました。しかし同年終わり頃、アメリカの真珠湾では日本の空母機動部隊による攻撃が行われました(パールハーバー)。この攻撃によって停泊中の戦艦8隻の内の7隻を撃沈・大破に追い込みました。また、遠くマレー・フィリピンでは陸軍部隊が侵攻し、ゼロ戦による米軍基地攻撃が行われました。このマレー・フィリピンへの日本の侵攻に対し、イギリスの「プリンスオブウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」等を中心とした東洋艦隊がマレーに向かって巡行中、日本海軍による東洋艦隊への空襲が行われ2戦艦を撃沈しました。
これら二つの功績はこれからの海戦は’’大和’’のような大きな巨砲をぶっぱなして相手を倒すやり方から、’’航空機’’による空襲を中心とした戦い方にシフトしていくことを示していました。「大艦巨砲主義」を具現化したような存在である’’大和’’はもはや時代遅れの存在となっていきます。