鶯谷駅から7~8分歩いた住宅街の中に、政治家’’陸奥宗光’’とその家族が一時期住んでいた住居跡が残っています。
洋式の建築である家屋は、都内に残っている洋式の住居用建築物の中ではかなり古い部類である貴重な建物のようです。
人は住んでないのだろうと思っていましたが、現在でも人が住んでいるようなので外観のみ見学できる歴史的史跡です。
西宮邸(旧陸奥宗光邸)と「ちりめん本」
▼陸奥宗光とその家族が住んだ屋敷
明治期の外務大臣として日清戦争の講和条約締結や欧米列強との条約改正など日本の外交史に大きな足跡を残した陸奥宗光(1844~1897)の最後の住まいは、現在の西ヶ原の旧古河庭園です。
しかしそんな華々しいスポットライトが当たる前の雌伏の時代に、宗光はこの邸宅に住んでいました。
陸奥宗光は西南戦争時に反政府的な行動をとったとして禁錮5年の刑を受け1883(明治16)年1月に出獄したあと、同年9月に「1邸地を購得した」のがこの邸宅です。まだここ根岸が、東京府北豊島群金杉村という地名で、上野の山の下を鉄道が開通したばかりのころです。
1884(明治17)年4月から1886(明治19)2月まで宗光はロンドンに留学しますが、その留守中、後年「鹿鳴館の華」と称される妻の亮子と子供達がこの家に暮らしました。そして宗光は留学から帰国して1887(明治20)年4月に六本木に転居するまでここで過ごしました。
この建物は住宅用建築として建てられた洋館の現存例としては都内で最も古いもののひとつです。もともとは現存の洋館に和風(内部は洋式)の建物が付属した接客部と、母屋に付属した離れと土蔵2つを持つ生活部とからなる和洋館並列型住宅でした。現存する洋館部分はコロニアル洋式で建築されており、正面側の1~2階に大きな開口が連続して配置され、各部屋には暖炉が備え付けてあります。陸奥家とのかかわりという点からいうと、玄関を入るとすぐに階段があり、その階段の手摺の親柱には陸奥家の家紋である「逆さ牡丹」が彫刻されています。
1888(明治21)年、宗光は借金返済と息子・廣吉のロンドン留学費用捻出のため、この家を売却します。その後1907(明治40)年ごろ、「ちりめん本」を出版していた長谷川武次郎が自らの住まいと社屋(長谷川弘文社)として買い取ります。
家には長谷川武次郎のご子孫の西宮氏ご家族がお住まいです。建物内への立ち入りはできません。静かに敷地外部からご見学ください。根岸子規会