✅病院壕が再現された施設
かつて南風原病院壕群があった黄金森に隣接して作られた施設です。
内部は沖縄戦における南風原の人々の生活や、病院壕についての説明であったり、沖縄の文化についてを学ぶことができます。
✅南風原病院壕群
1944年5月に熊本において第32軍の陸軍病院として編成されたのを源流として、沖縄では6月から那覇市内で活動を始めました。しかし、10月10日のいわゆる「10・10空襲」において那覇市内は大ダメージを受け、陸軍病院も南風原国民学校へ移転します。字喜屋武と字兼城近辺に横穴壕が造られると、その横穴壕に移り軍医・衛生兵・看護婦の他、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒が看護補助要員として動員されました。
✅南風原病院壕(再現)
✅壕内の明かり
✅薬品
✅陶製手榴弾や三角ヤリ
✅南部撤退と青酸カリ
米軍が沖縄本島中部に上陸してから患者が激増していきました。
特に外傷患者が多かったことから、外科を第一・第二・第三と改めて対応を行いました。
しかし、第32軍が沖縄南部への撤退が決まったために南風原病院壕にも撤退の命令が出されます。
撤退に際して治療活動は停止、自分の力で歩けない患者に青酸カリ入りのミルクが配られました。
大本営は「国土決戦教令」という文書を発表しており、その中に「決戦間傷病者ハ後送セザルヲ本旨トス」「戦友ノ看護、付添ハ之ヲ認メズ」といったように、怪我人の搬送・看護や付き添うことも認めない故の内容を出しています。
また、捕虜として捕まることは恥であり、捕虜になれば家族さえも処罰され、はたまた米軍に捕まれば残酷に殺されるというプロパガンダがされていました。
こうなってくると、看護も期待できないし、捕まれば家族にも迷惑をかけた挙句に殺害されるという、心理的に八方塞がりの状況になりました。
そんな時に配られたミルク…素直に飲んだ者もいれば、毒入りと分かった上で自決の道を選んだ患者がいたかもしれません。
撤退後、病院本部は糸満市の山城、第一外科と第三外科は糸満市の伊原、第二外科は糸満市の糸洲にそれぞれ分かれました。