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ひめゆり学徒散華の碑
今回は沖縄県糸満市に建立する「ひめゆりの塔」と「ひめゆり学徒散華の碑」だべ
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こんな岩場を彷徨ったんですね!
「沖縄県立第一高等女学校」と「沖縄模範学校女子部」は、沖縄戦時には看護要員「ひめゆり学徒隊」として動員されました。
そして、戦場にて亡くなった学徒隊の慰霊塔が「ひめゆりの塔」、その前にあいている縦穴が「伊原第三外科壕」です。
この壕にはひめゆり学徒を含む、病院関係者や住人などおよそ100名がいましたが、米軍のガス弾攻撃を受けて80人余りが亡くなられたとのことです。
塔に隣接している「ひめゆり平和祈念資料館」には、学校生活についての説明から、ひめゆり学徒隊の遺品や、伊原第三外科壕内を再現しているコーナーもあり、より深く見て考えることができます。
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大戦末期である1945年、「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」の女子生徒と職員らは、南風原町にある沖縄陸軍病院に看護要員として動員されました。
その後、戦闘の激化によって傷病者の数が増えたため、識名・一日橋・糸数に病院の分院が設置され、女学生達もそれぞれ分散配置されます。
しかし1945年5月末、沖縄を守備していた第32軍の南部撤退が決定されます。
それと同時に陸軍病院も放棄されて本島南部の新しい場所に病院機能を移しますが、物資の不足によって既に病院としての機能は無くなってきていました。
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南部撤退後も、新しい地でいくつかの壕に病院機能が分散され、女学生らも分散して配置されます。
しかし、艦砲弾により病院長や衛生兵・学徒が戦死したり、各壕が馬乗り攻撃され始め、病院としての機能も完全に無くなり、最後には学徒隊は解散され女学生達は戦場を彷徨うことになります。
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米軍の馬乗り攻撃や飛び交う銃弾から逃げ、女子学生と教員がたどり着いたのが沖縄本島南端にある「荒崎海岸」でした。
現在歩いてみても分かる通り、琉球石灰岩の尖った岩々が広がっている海岸です。
この場所で最期を覚悟し、持っていた手榴弾のピンを抜いたのでした。