名称 | 南風原陸軍病院壕 | |||
住所 | 〒901-1113 沖縄県島尻郡南風原町 |
|||
解説 | 沖縄陸軍病院壕、通称:南風原陸軍病院壕。黄金森を中心に構築された人工壕群。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
✅沖縄陸軍病院
先日書いたアブチラガマ(糸数壕)に行く前に沖縄陸軍病院南風原壕群20号にも行っていました。
この場所はアブチラガマでも勤務していたひめゆり学徒隊も勤務していた場所です。
戦況が悪化して、この場所からアブチラガマや南部の他のガマへ移動していきました。
もともと沖縄陸軍病院というのは1944年の5月に熊本で編成された、第32軍直属の陸軍病院として編成されました。
広池文吉病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵による約350名からなる部隊です。
6月から那覇市内の開南中学校を使用していました。
✅十.十爆撃(ジュウ.ジュウバクゲキ)
しかし、1944年10月10日の米軍の空襲によって開南中学校は焼失してしまい、分院として使用していた「南風原国民学校校舎」に移転しました。
この空襲は「十.十空襲」と呼ばれており、早朝から夕刻までで5回の空襲があり、約1400機の米軍の艦載機が約541トンの爆弾を民間施設も含めて無差別に落としていきました。
那覇市の9割が焼失した空襲で、日本への空襲では初めて焼夷弾(着弾した周りの建造物を炎上させる目的の爆弾)が使われました。
✅沖縄陸軍病院壕
南風原国民学校の校舎に移転しましたが、艦砲射撃などにより再度校舎は焼失。
今度は南風原町字喜屋武の東側にある黄金森と呼ばれている丘陵地帯に構築していた横穴に病院機能を移します。
横穴壕の数は、字兼城(現南風原町役場北側の丘)と字喜屋武(黄金森)を合わせて約30の構築壕が作られていました。
横穴内には二段ベッドが作られて、重症患者はここに寝かされていたといいます。
現在公開されている南風原病院壕20号の中は、高さ約1.8m、横幅1.5m程、長さは約70mです。
中で他の壕と行き来が出来たようですが、現在は土砂により立ち入り禁止となっています。
この南風原病院壕には、前述した軍医や看護婦などの350人に加えて、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒からなる「ひめゆり学徒隊」222人も看護補助要員として動員されていました。
4月1日、米軍が沖縄中部の読谷村付近の海岸より上陸し、地上戦が展開されると外傷患者は更に増え、外科を「第一外科」、内科を「第二外科」、伝染病科を「第三外科」と改めて、急増患者に対応しようとしました。
負傷兵でいっぱいになった壕内には血と膿の臭いが充満し、医療品の不足から手術も麻酔をしないで行われ、悲鳴と嘆きが壕内に響きました。
この臭いを再現した物を南風原病院壕で嗅ぐことができます。
5月下旬には戦況悪化し、陸軍病院に撤退命令が出されます。
重症の患者には牛乳に青酸カリを混ぜて渡されました。
使用していた薬剤についても、出口近くの土に埋められていたものが発見されています。