飛行機の時間まで2時間くらい余り、前から興味のあった森鴎外記念館に行く事にしました。
また、付近には文学者の史跡も多いようなので時間の許す限り回ることを計画。
日暮里駅出発時間:AM9:40
日暮里駅を出て西に向かえば谷中銀座商店街の夕焼けだんだんへ行けますが、途中のセブンイレブン手前を左折。
道なりに進むと「幸田露伴旧宅跡」があります。
日暮里駅から「幸田露伴旧宅跡」へは徒歩5分くらいで到着します。
旧宅自体は残っておらず、案内看板と幸田露伴が居住していた頃からあるという’’珊瑚樹’’が残っています。
幸田露伴居宅跡
台東区谷中7-18-25
幸田露伴は、明治二四年一月からほぼ二年間、この地(当時の下谷区谷中天王寺町21番地)に住んでいた。
ここから墓地に沿った銀杏横丁を歩き、左に曲がると天王寺五重塔があった。五重塔は寛永二十一年(一六四四)に感応寺(天王寺の前身)の五重塔として創建され、昭和九年(一七七二)二月に焼失、寛政三年(一七九一)棟梁八田清兵衛らにより再建された。
露伴は当時の居宅より日々五重塔をながめ、明治二四年一一月には清兵衛をモデルとした名作「五重塔」を発表した。同二六年一月、京橋区丸山町(現中央区)へ転居したが、現在もかたわらに植わるサンゴジュ(珊瑚樹)は露伴が居住していた頃からあったという。
露伴は、慶応三年(一八六七)七月、下谷三枚橋横町(現上野4丁目)に生まれ、すぐれた文学作品や研究成果を多数発表するなど、日本文学史上に大きな足跡を残した。昭和二二年七月没、墓所は大田区池上本門寺にある。平成一四年三月
台東区教育委員会
1867年東京生まれ。本名:茂行
電信修技学校を卒業後、北海道へ電信技手として赴任したおり、坪内逍遥の「小説神髄(しょうせつしんずい)」や「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」に触れて、文学への道を志す。1888年に帰京し、翌年には文芸雑誌’’都の花’’に「露団々(つゆだんだん)」を発表、続けて「風流仏(ふうりゅうぶつ)」は幸田露伴の出世作となります。
尾崎紅葉の’’写実派’’に対して、幸田露伴は’’理想派’’と称されて「紅露時代」を築きました。
✅夕焼けだんだんの上から見る「谷中銀座」
✅夕焼けだんだん
朝も早いので商店街のお店は開店準備で忙しそうです。
谷中銀座の食べ歩きについてを調べてみると’’ひみつ堂のかき氷’’や’’谷中メンチ’’、’’元気メンチカツ’’などガッツリ系からスイーツまで楽しめるようです。
今回は2時間の時間制限があるのでスルーしますが、今度来たときは食べてみたいべな!
谷中銀座の突き当りを左折、直進して突き当りを右折すると団子坂下の交差点に到着。
千代田線の千駄木駅で降りるとこの場所に出ます。
''団子坂’’という名の由来は諸説あるそうですが、その一つが’’坂に団子屋さんがあったから’’という説があり、私的には単純明快にそれなのかなと思っています…!
また、この坂は様々な文学作品にも登場しており、江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」や夏目漱石の「三四郎」などがあります。この坂は菊人形が有名であったため、これらの文学作品でも名物の菊人形を絡めて登場しています。
団子坂を登ると「森鴎外記念館」があります。
今回はいけませんでしたが「講談社発祥の地」も近くにあります。
森鴎外記念館がある場所には、かつて森鴎外の邸宅「観潮楼(かんちょうろう)」がありました。
名前の由来は’’2階の書斎から東京湾を見ることができた’’からで、一種のサロンのようにも使用されていました。
「観潮楼歌会」という会があり、与謝野鉄幹・伊藤左千夫・佐々木信綱・石川啄木・吉井勇・木下杢太郎・斎藤茂吉・北原白秋らの青年歌人が流派を超えて参加し、観潮楼で論議を交わしていました。
文京区立森鴎外記念館
文京区立森鴎外記念館は、明治の文豪・森鴎外の旧居「観潮楼」跡地に開館しました。
鴎外は1892(明治25)年30歳で文京区千駄木に居を構え、亡くなる1922年(大正11)年まで30年にわたり家族と共に暮らしました。観潮楼は団子坂上(別名:汐見坂)に位置し、家の2階からも品川沖が見えたと言われ、鴎外により「観潮楼」と名づけられました。観潮楼は火災、戦災等により現存しませんが、1962年(昭和37)年、鴎外生誕100年に「鴎外記念本郷図書館」が開設され、その後、生誕150年を記念して、2012(平成24)年11月に当館が開館しました。旧正門の礎石、敷石、大イチョウ、三人冗語の石などは現在も残り、東京都指定旧跡「森鴎外遺跡」として文化財保護の対象となっています。
(パンフレットより引用)
✅森鴎外記念館
✅入り口
✅中庭
✅観潮楼址
’’団子坂上’’の信号を田端方面へ向かいます。
思ったよりも遠く、7~8分ほど歩くと左側に「高村光太郎旧居跡」の案内板があります。
✅高村光太郎旧居跡
高村光太郎旧居跡
千駄木5‐22‐8
高村光太郎【明治16年(1883)~昭和31年(1956)】は彫刻家・詩人・歌人。彫刻家高村高雲の長男として台東区下谷に生まれ、10歳の時に、ここからすぐ近く(現:千駄木5-20-6)へ移り、そこで育った。
東京美術大学(現:東京芸大)彫刻家を卒業して欧米に留学、ロダンに傾倒する。詩人としては、在学中「新詩社」に加わり、「明星」に寄稿し、「パンの会」にも参加した。明治45年(1912)に住居を父の家からこの地に移し、自分で設計した木造・外観は黒塗りの風変りなアトリエが完成した。以後ここで数多くの彫刻・詩などの作品が生まれた。大正3年(1914)長沼智恵子と結婚、昭和13年(1938)死別後は一人で暮らした。
昭和20年(1945)4月の戦災で住居は焼失し、岩手県石巻に疎開した。昭和27年中野区桃園町の中西利雄のアトリエに仮寓。昭和31年(1956)4月、73歳で没。墓地は豊島区駒込の染井霊園。文京区教育委員会
智恵子抄の主人公ともいえる’’長沼智恵子’’は高村光太郎と同じ時代に女性芸術家として活動しており、後に高村光太郎と結婚する女性です。
平塚らいてうを中心に発刊した「青鞜」の表紙絵を描くなど様々な経験値を積む智恵子ですが、ある日、父の死・実家の破産などが重なってしまい...
1931年頃、’’統合失調症’’の前兆が現れ始め、翌年には睡眠薬’’アダリン’’を大量服用し自殺を図るまでになります。この自殺は未遂に終わりますが、それ以降、生まれながらの病弱さもあり精神的にも肉体的にも智恵子は蝕まれていくのです。
1935年頃、南品川のゼームス坂病院へ入院し、光太郎の勧めで紙絵を制作しながら病院生活を送りますが、1938年に体調が悪化し帰らぬ人となります。
智恵子の死後、3年後に出された’’智恵子抄’’は智恵子への愛を歌った詩集で、その中でも’’レモン哀歌’’は智恵子の臨終の瞬間を歌った詩となっています。
✅「青鞜社」発祥の地
「青鞜社」発祥の地
文京区千駄木5‐3‐11
青鞜社は、平塚らいてう(雷鳥・1886~1971)の首唱で、木内錠子・物集和子・保持研子・中野初子ら二十代の女性5人が発起人となり、1911年(明治44)6月1日に結成された。事務所はここ旧駒込林町9番地の物集和子宅におかれ、その裏門に「青鞜社」と墨で書かれた白木の表札が掲げられた。
月刊「青鞜」の創刊号は明治44年9月に発刊された。雷鳥の発刊の辞「元始、女性は実に太陽であった」は有名で、女性たちの指針となった。表紙絵は後に高村光太郎と結婚した長沼ちゑの作である。
青鞜社は初め詩歌が中心の女流文芸集団であったが、後に伊藤野枝が中心になると、婦人解放運動へ発展していった。事務所はその後4カ所移り、「青鞜」は1916年(大正5年)2月号で廃刊となった。文京区教育委員会
✅夏目漱石旧居跡
✅猫の像
夏目漱石旧居跡
文京区向丘2-20-7
夏目漱石 本名・金之助。慶応3年~大正5年(1867~1916)。小説家。この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片一丁目に移るまで、3年10ヵ月住んだ家があった。(家主は東大同期の斎藤阿具氏)
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。その作品「吾輩は猫である」の舞台として、「猫の家」と呼ばれ親しまれた。
この地で「倫敦島(ろんどんとう)」「坊っちゃん」「草枕」などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。漱石文学発祥の地である。
漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外はここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。
2大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は愛知県犬山市の明治村に移築保存してある。文京区教育委員会
✅宮沢賢治旧居跡
宮沢賢治旧居跡
文京区本郷4-35-4
宮沢賢治(明治29年~昭和8年)は詩人・童話作家。花巻市生まれ。対象10年(1921)1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方2階6畳に間借りしていた。菜食主義者で馬鈴薯と水の食事が多かった。
東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をした。これらの活動と並行して童話・詩歌の創作に専念し、一日300枚の割合で原稿を書いたといわれている。童話集「注文の多い料理店」に収められた「かしわばやしの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。
8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎで花巻へ帰ることになったが、トランクにはいっぱいになるほど原稿が入っていたという。文京区教育委員会
✅坪内逍遥旧居・常磐会跡
坪内逍遥旧居・常磐会跡
文京区本郷4‐10‐13
坪内逍遥(1859~1935)は、本名雄蔵、号は逍遥、または春廼舎おぼろで、小説家、評論家、教育家である。明治17年(1884)この地(旧真砂町18番地)に住み、「小説神髄」(明治18年~19年)を発表して勧善懲悪主義を排し写実主義を提唱、文学は芸術であると主張した。その理論書「当世書生気質」は、それを具体化したものである。門下生・嵯峨の舎御室は「逍遥宅は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあったのだ」と回想している。
逍遥が真砂町25番地に移転後、明治20年には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常磐会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は、明治21年から3年あまりここに入り、河東碧梧桐(俳人)も寄宿した。また舎監には内藤鳴雪(俳人)がいた。ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす 正岡子規
(常磐会寄宿舎から菊坂をのぞむ)文京区教育委員会