名称 | 高嶺製糖工場の門柱・糖蜜タンク | |||
住所 | 〒901-0322 沖縄県糸満市字与座 |
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解説 | 沖縄県初の機械製糖工場で、「高嶺製糖工場」と呼ばれた。沖縄戦時初期にはアルコールも造る軍需工場と化した。「門柱」と「糖蜜タンク」が現在でも残っており、表面には弾痕も残っている。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
沖縄県糸満市与座の与座交差点近くの道端に2m程もある石柱が二本建っています。
かつてこの場所には「高嶺製糖工場」という製糖工場があり、この柱は工場の入り口にあった門柱だったのです。
そして、門柱のある道路を直進していくと製糖工場で使用されていた「糖蜜タンク」へたどり着きます。
この近辺一帯が製糖工場だったので、住宅地となった現在でも工場内道路の一部が残っているのです。
✅門柱跡
✅糖蜜タンク
高嶺製糖工場は、大正元(1912)年に建設された沖縄初の機械製糖工場です。大正3(1914)年から非製糖期には与座ガーの湧水を利用して製氷も行っていました。工場敷地内の社宅には個別に電気が引かれていたほか、共同浴場・理容室・ビリヤード場・テニスコートなどの共用施設もあり、一つの字のようでした。
沖縄戦当時は、日本軍の命令でアルコール製造も行っていました。工場の煙突は、爆撃の目標になるとの理由で日本軍によって破壊され、工場施設は地上戦により門柱と糖蜜タンク以外は全て破壊されました。糖蜜タンクには所々に当時の銃弾痕が残っています。
戦後、与座ガーが米軍のワーラーポイント(取水所)となり、住民の立入禁止が禁止されたため、住民は旧製糖工場の跡地に居住し、製糖工場の経営会社と土地購入の交渉を行い、工場跡地を39坪ずつに区切り、希望者はくじ引きで土地を購入しました。
高嶺製糖工場跡は、日本の近代化に貢献した施設として評価され、経済産業省から「近代化産業遺産」に認定されています。
✅門柱跡
✅左側の門柱
✅右側の門柱
✅弾痕?
沖縄はサトウキビから黒糖を造る製糖事業が戦前より基幹産業となっていました。
この場所以外にも製糖工場跡はいくつか残っています。
高嶺製糖工場付近には、かつて沖縄を走っていた軽便鉄道の駅「高嶺駅」もあり、商品の出荷などに利用されていました。
創業当時は大きな煙突がありましたが、戦中に日本軍により破壊されました。
煙突があると目立つためです。
✅糖蜜タンク
門柱をくぐって直進していくと「糖蜜タンク」があります。
高さは胸丈くらいだったので1.5mくらいだと思います。
✅弾痕
側面を見てみると多くの弾痕が確認できます。
沖縄戦の戦況悪化から工場の操業は停止し、軍命によって黒糖を原料としたアルコールを造りはじめました。
このアルコールは戦地で戦う兵が切り込み・突撃前の士気高揚のために飲まれたようです。