名称 | 加賀公園(東京第二陸軍造兵廠跡) | |||
住所 | 〒173-0003 東京都板橋区加賀1丁目8 |
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解説 | 現在の加賀公園の場所には加賀藩前田家の屋敷があり、1876年には屋敷跡に火薬製造所が建設された。太平洋戦争中の1940年には東京第二陸軍造兵廠となり、兵が使用する銃の火薬などが製造された。現:十条駐屯地一帯にあった東京第一陸軍造兵廠とは電気軌道で繋がれており、埼京線の線路内にも橋台の遺構が残っている。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
JRだと埼京線十条~板橋の中間、都営地下鉄では新板橋駅から東京家政大学方面に進むと「加賀公園」があります。
江戸時代まで遡ると、この一帯は加賀藩前田家の屋敷があり広大な土地を所有していました。
公園内にも「加賀藩前田家下屋敷跡」というステンドグラスの碑があります。
「下屋敷」というのは藩から送られてきた物資を引き揚げるための蔵屋敷のことで、現在残る遺構としては当時の築山が残っています。
時代が進み、明治政府は元加賀藩の土地一帯に火薬工場(砲兵本廠板橋属廠)を建設し、1940年には「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」と改称されて帝国陸軍の弾薬や兵器を支えました。
現在の埼京線の東側にある十条駐屯地一帯が「東京第一陸軍造兵廠」、西側の加賀公園一帯が「東京第二陸軍造兵廠」とされていました。
これらは電気軌道により繋がれており、埼京線の線路には橋台跡が残っています。
✅加賀前田家下屋敷跡
加賀公園内にあります。
板橋区のHPを見てみると現在の地名である’’加賀’’であったり、’’加賀公園’’、’’金沢小学校’’などの石川県金沢にゆかりのある名称が多いことも、この場所に加賀藩所有の土地があったことに関係しているそうです。
幕末の嘉永6年(1853年)、浦賀沖にアメリカのペリー艦隊が来航してから事情が一変します。加賀藩としては江戸防備のため大砲を作る必要がありました。加賀藩では既に西洋式の大砲を作る技術を金沢で確立していましたが、江戸での体制をどうするかが懸案でした。
下屋敷は江戸郊外にあって近隣住人が少ないこと、敷地が広いこと、銅鉄の材料や江戸の職人を動員できること、動力として使える水車があることなどの利点から、藩は下屋敷を大砲製造所にすることを決定しました。「加賀藩下屋敷の大砲製造」より
✅弾道検査管の標的
加賀公園内の築山の中腹にあるレンガとコンクリートの塊が「弾道検査管の標的」です。
現:加賀公園の隣にある野口研究所内から延びている「弾道検査管」というパイプの中に弾丸を通して、この標的に当てていました。
かつてこの地にあった火薬研究所の設備で、火薬の種類や量を変えて弾速などを測定・観測する装置として使用されました。
現在残っている弾道検査管のパイプは内径68.6㎝のコンクリート製で、パイプの中に弾丸を通す様相から「トンネル射場」と呼ぶ技術者もいたようです。
✅弾道検査管
関連する施設としては爆薬製造実験室や加温貯蔵室、火薬研究室が残されていました。
✅電気軌道敷設跡(野口研究所側)
✅電気軌道敷設跡(加賀公園側)
各施設が健在の頃は火薬研究所から東京第一陸軍造兵廠十条工場や滝野川工場に電気軌道が敷設されていました。
火薬を運ぶことから引火の可能性のある蒸気機関ではなく当時は珍しい電気軌道が使用されています。
現在、公園内に線路の跡などは残っておりませんが、公園内の直線の道に線路がありました。