名称 | 飯あげの道 | |||
住所 | 〒901-1113 沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武300 |
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解説 | 戦中、現在の「名護の殿」に炊事場があり、完成した食料をひめゆり学徒が二人一組で黄金森にある陸軍病院壕まで運んだ。陸軍病院壕までは黄金森内の丘を越えなくてはならず、また道中は敵機からの銃弾の中をあるかなければならなかった。現在はある程度整備されているが、一部未整備の道もあるので当時の状況を少し垣間見ることができる。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |


沖縄県南風原町字喜屋武には「沖縄陸軍病院 南風原壕群20号」があります。
ここは太平洋戦争時に負傷した兵隊が運ばれてきた、一応は病院の機能を持った防空壕でした。
こういった病院壕は他にも各地にありました。
しかし、戦争が進むにつれてどの病院壕でも物資や薬剤が不足し、病院でありながらも治療はほぼ出来ない状況でした。
そんな病院壕で兵隊たちのお世話をしたのが’’ひめゆり学徒隊’’をはじめとした「女子学徒隊」でした。
彼女らは兵隊の食事の配膳や汚物の処理、手術の手伝い等、様々なことを担当していました。
それでも彼女らは「看護補助要員」、当時の日本の雰囲気や学校全体で動員される等で反強制的なものでしたが、扱いとしては自主的にお手伝いしているというものでした。
戦争も終盤になると、突如として学徒隊に解散命令が出され、戦地に放り出されます。
その後の集団自決については「ひめゆり学徒隊」が主に知られています。

今回の「飯あげの道」ですが、戦時にひめゆり学徒隊や衛生兵らが食料を運んでいた丘陵内の道です。
現在の「名護の殿」がある場所に炊事場があり、ここで炊いたご飯を樽に入れて学徒隊や衛生兵が二人一組で病院壕まで運んでいました。
ただ運ぶだけでも大変ですが、炊事場から病院壕までの間には「黄金森」という丘陵地があり、足場の悪い道を弾雨が飛び交う中で歩かなければなりませんでした。
現在は「飯あげの道」も整備されていますが、一部は未整備となっているので当時の状況を少し垣間見ることができます。
✅飯あげの道

現在は観光案内所が建っているので当時とは違っていたり、獣道に関しては推定になります。
①名護の殿


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現在は頭上に県道241号線が通っています。
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階段を登ると観光案内所横に出ます。
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南風原文化センターの駐車場を抜け、中央の階段を登っていきます。
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