旧西原村役場壕
那覇に隣接する町「西原町」はかつては「西原村」でした。
戦中、那覇市首里にあった第32軍司令部に近い村であるため、棚原や運玉森では激戦地となりました。
それだけでなく完成しなかったものの、「西原飛行場(別称:小那覇飛行場・与那原飛行場)」も建設されていた為、激しい攻撃を受けました。
その結果、戦闘や南部への避難において命を落とした住民は約47%にもなり、一家全滅世帯数は約470世帯に及びました。
そんな西原町に残っているのが「旧西原村役場壕」です。
旧西原村役場壕があるのは、かつて忠魂碑が建立されていた場所でもある「西原の塔」から徒歩1分ほどの場所です。
役割としては戦時中であっても役場の仕事を続けるための壕で、役場にあった重要な文書や公印などが保管されてた場所であったので、通常の避難壕とは違って行政色が強い役割の壕です。
広さは約40平方メートル、雇った西原村の住民らの手により構築されました。
壕の中に置いていた金庫の扉は厚さ7㎝にも及び、戦後40年後の昭和60年に発掘されるまで壕に放置されていました。
旧西原村役場壕
西原町指定文化財(2014年3月18日指定)
1941年の太平洋戦争勃発後、日本軍の戦況が悪化してくると、大本営は沖縄に第32軍を配備し、西原村でも西原国民学校などに1200名が駐屯しました。
戦況がますます厳しくなった1944年6月ごろ、西原村役場でも地元住民から人夫を雇って役場壕を掘り、戸籍簿・土地台帳などの重要書類や、公金・公印・出納簿・戦時債権などを重さ1トンほどもある壕内の金庫に収納していました。
役場の事務は米軍の本島上陸直前まで行われ、毎朝出勤すると役場壕から書類を持ち出して事務を行い、夕方再び書類を壕内に運んで保管していました。
戦後、壕内はそのまま放置され、1980年ごろ、土建業者が道路に面した部分をえぐってしまったために主壕の壁が壊され開口してしまいました。本来の入り口は北東に向かった二カ所です。
今日、戦争の歴史的教訓が年々風化するなか、太平洋戦争の悲惨さを物語る、本町での数少ない戦争遺跡のひとつとなっています。