✅荒木山(喇叭山)
かつて千葉公園周辺は鉄道連隊を中心に陸軍施設が集まっていました。
現千葉公園は作業場として使われており、線路の敷設・修理・敵軍鉄道の設備破壊など様々な訓練が行われていました。
現在では訓練に使われていた橋脚やトンネル跡が残っていますが、他にも荒木山と呼ばれる丘が公園内にあります。
この’’荒木’’という名前も鉄道連隊に関連した名前です。
「荒木山」は鉄道聯隊が駐留していた時代、ラッパ手が練習場所としていたことから「喇叭山(ラッパヤマ)」と呼ばれていました。
しかし、鉄道第一連隊に所属していた工兵’’荒木克業’’中尉(死後大尉)が戦死した際に、追悼の意味もこめて喇叭山に荒木中尉の像を建てたことから’’荒木山’’と呼ばれるようになりました。
✅戦中の千葉公園周辺
荒木山の由来
千葉公園及びその周辺は、鉄道聯隊(1908(明治41年)設置)の演習場跡であり、今でも公園内のコンクリートの加橋台やトンネルにより演習場の面影を伝えております。
当時、この小高い丘は、聯隊のラッパ手の訓練が行われ「喇叭山(ラッパヤマ)」と呼ばれ親しまれていましたが、殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一聯隊の兵達により銅像が建立されたため、以後「荒木山」と呼ばれるようになりました。
その後、物資窮乏の時局を迎えて、銅像の姿は消えてしまいましたが、今でも、この小高い丘は「荒木山」と呼ばれ、市民に親しまれております。
✅荒木克業(1907~1932)中尉の最期
荒木克業中尉は熊本出身の陸軍軍人です。
1929年に陸軍士官学校卒業後、同年10月25日には鉄道第一連隊第二中隊に所属します。
1932年、満州国軍黒竜江省駐留の軍人が「東北民衆救国軍」と名のって満州里で反乱を起こします。(ホロンバイル事件)
関東軍は第14師団に対して、「東北民衆旧国軍の鎮圧」と「人質救出」を命じるのです。
第14師団の中に鉄道第一連隊第二中隊も隷下として含まれていた為、荒木中尉も満州へ飛びます。
荒木中尉は列車追撃隊の小隊長となり、斉斉哈爾(チチハル)から列車で満州里へ向かいました。
途中、破壊された線路を修理しつつ進んでいくと、大興安嶺(ダイコウアンレイ)という山脈地帯で敵軍との戦闘が始まりました。
敵の橋梁破壊などにも橋梁を修理し対応すると、今度は石の塊を大量に積んだ列車を荒木中尉らが乗る列車目掛けて放ってきます。
これに対し、自軍の列車を後退させつつ脱線器を線路に装着、部下を即座に退避させる。
しかしながら、一人で装着具合の再確認をしていた荒木中尉は退避が遅れてしまい、脱線し飛散した石の塊の下敷きになってしまうのです。
結果として、列車追撃隊は数日後には満州里に到着、人質の解放と軍の鎮圧という目的は果たすことが出来ましたが、荒木中尉は戦死しました。
この荒木中尉の活躍は英雄や軍神として称えられ、軍歌「工兵の歌」7番の歌詞にもなりました。
工兵の歌
7.
興安嶺(こうあんれい)の朝ぼらけ
鉄路確保の先駆(さきがけ)に
轟き降(くだ)る放車をば
其の身と共に葬りし
燦(さん)たり名誉竹帛(ちくはく)に
其の名輝く荒木山
線路確保のための先駆けに
激しく下ってくる列車を
その身と共に葬った
素晴らしい名誉は歴史に名を残し
荒木山にはその名が輝いている
訳はこんな感じでしょうか?