✅「エジソン」と「竹」
古来から日本は木などを燃やして光源としていました。
その後はオイルランプなどに遷移し、’’電球’’が普及したことで激変していきます。
「電球」はフィラメントに電気を流し、電気抵抗で生じる「熱」により発生する「光」を利用します。
トーマス・エジソンは、幼いころから好奇心に溢れた子供でしたが、その強すぎる好奇心のために「扱いづらい子供」とされ学校も退学させられてしまいます。そんなエジソンが特に興味を持っていたのが物理や科学の世界でした。
その後は新聞の売り子などでお金を稼ぎながら、そのお金で科学の本を買って独学で勉強をつづけました。
1869年、22歳の時には特許を取得していた株式相場表示機が業界からも好評であり、その特許が4万ドル(約2億円)で売れたことで発明家として本格的に歩んでいくことになります。
ニュージャージー州にメンロパーク研究室を作りって蓄音機や電話などの商品化を進めましたが、特に力を入れたのは前述した’’電球’’でした。
実用化した電球の名前は、ゾロアスター教の光と英知の神’’アフラ・マズダー’’から「マツダ(MAZDA)」と名付けられました。
✅タングステンの登場
エジソンが開発した炭素フィラメント電球ですが、炭素の沸点は約4000度で真空中となると約1800℃で蒸発し始めてしまいます。そうなるとフィラメントが切れてしまうのでそれ以上の温度にすることはできません。
炭素フィラメント電球の光が暗いことやオレンジ色であること、短寿命であることの原因でした。そこから金属製のフィラメントの研究が開始されます。
エジソンの技術とJPモルガンの資本により誕生したGE社(General Electric Co.)がタングステンのフィラメントの製造に成功しました。このタングステンフィラメントは、現在の白熱電球のフィラメントとしても使われています。
ここで電球として完成かと思いきや、さらなる改良があります。
フィラメントとしての寿命や明るさは炭素フィラメントよりも優れているにしろ、金属のタングステンも2500℃を超えると少しずつ蒸発が始まります。その結果、タングステンは細くなっていき、最後は折損(一般的に言う球切れ)が発生してしまうのです。
また、気化したタングステンは低温のガラスの部分に付着し黒く汚れることによって視覚的な明るさも落ちてしまいます。
その問題もGE社が改善に乗り出します。
それまで電球内部は真空にしていましたが、不活性ガスである窒素で満たすことによって、タングステンの蒸発を3000℃まで抑えられるが発見されるのです。その後、アルゴンガスの方が効果があることが分かり、この不活性ガスを封入したタングステンフィラメント電球は炭素フィラメント電球よりも3倍ほど効率が良い上に、明るく寿命も2倍近くになります。
この時代から前代を照らしてきたオイルランプなどは駆逐されていきました。
この不活性ガス入りタングステンフィラメント電球に手を加えて、封入ガスにハロゲンを混入することによって、蒸発したタングステンがフィラメントに還元するようにしたハロゲン電球も開発されました。それはフィラメントの寿命を長くすることや、ガラス面にタングステンが付着しずらい為ガラス面が汚れづらくなることに繋がりました。
✅「世界における電球6大発明」と「東京電気」
日本において電球に関する研究を牽引していたのが「東京電気」です。
創業は1890年、藤岡市助と三吉正一という人物の共同で設立された会社であり、元々は「白熱舎」という名称でした。
主な事業内容は国内における白熱電球の製造で、国産電球第一号も製造しました。
また、社内の技師である三浦順一により「二重コイル電球」が発明されます。使用するフィラメントを螺旋状に巻き、その巻いたフィラメントを更に螺旋状に巻くこの「二重コイル」はフィラメント内部の熱が逃げにくい為、より明るい電球となりましたが増産環境などが整っていませんでした。しかし、この発明は世界初であり、「世界における電球6大発明」の一つにも数えられています。
また、それまで世界では電球を明るくすることに注力していましたが、新たな問題が発生してくるのです。
それは「明るすぎる」ことです。
なんとも我儘な気もしますが、現在と違って当時は電球に透明のガラスを使用していた為、そのままの明るさだと眩しすぎるのです。
これを解決したのも東京電気の技師であった不破橘三でした。
当初はガラス面の外側につや消しの加工をすることで眩しさの軽減を図りましたが、ガラス面が汚れやすくなったり何よりも照度が落ちすぎてしまいました。
次に考えたのが、ガラス面の内部に加工をすることでしたが、技術的にはとても難しいことに加えて、ガラスの耐久性の低下にもつながる行為でした。それでも研究を続け、ついに強度にも問題のない内面つや消し加工に成功しました。
昭和2年(1927年)には内面つや消し自動機械を開発し、量産技術を確立させます。
量産されたこの電球は「新マツダ瓦斯入電球」として発売されました。
この内面つや消しの技術は、アメリカにも渡って実用化されました。
前述した「二重コイル」と共に「内面つや消し技術」は世界における電球6大発明となりました。
この2名の技師が勤めていた「東京電気」は、1939年に芝浦電機と合併して東芝(TOSHIBA)として現在でも残っています。