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零戦の生みの親「堀越二郎」

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✅堀越二郎の傑作「零式艦上戦闘機」





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歴史に興味のない人でも「ゼロ戦」という言葉くらいは聞いたことがあるかと思います。’’ゼロ戦’’は’’零式艦上戦闘機’’の略称で、現代においても戦争を題材にした映画や漫画においては確実に登場してくるであろう有名な日本の戦闘機です。なぜ、この戦闘機がここまで有名なのかというと、当時の’’ゼロ戦’’のデビュー戦や太平洋戦争初期での活躍が色濃く残っているからでしょうか。

零式艦上戦闘機21型
製造:三菱
全幅:12.00m
全長:9.06m
重量:2410㎏
速度:時速533㎞/時
エンジン:栄12型
航続距離:3350㎞
武装機器:20㎜機銃×2・7.7㎜機銃×2・30㎏または60㎏爆弾
搭乗人員:1名

ゼロ戦の最大の特徴は旋回性能が高く、小回りが利くことにあります。このことは戦闘機においては強力な武器となることで、敵戦闘機が後ろに張り付いて追尾されている状態でも旋回して敵戦闘機の後ろを取ることができます。基本的に当時の戦闘機の機銃は後ろにはついていないため、後部をとったら撃ち落とすことに専念できるのです。ゼロ戦のデビュー戦は1940年の中国大陸です。中国国民党軍の戦闘機部隊30機あまりに対して、ゼロ戦13機で挑みました。この戦闘は日本の完勝で、国民党軍の被害は25機前後と言われていますが、ゼロ戦は3機が被弾・着陸に失敗するといった程度の損失でした。また、ハワイの真珠湾攻撃(パールハーバー)への攻撃の際にもゼロ戦は九九式艦上爆撃機の護衛として参加していますが、奇襲というのはありますが120機出動しているゼロ戦の損失は10機に満たない数でした。

✅「風立ちぬ」では主人公に。ゼロ戦設計者「堀越二郎」

そんな旧日本軍を代表する戦闘機「零式艦上戦闘機」の設計をしたのが「堀越二郎」です。’’ゼロ戦’’は三菱内燃機製造(現三菱重工業)に勤めていた際に設計を行った戦闘機です。堀越二郎は1903年に群馬県藤岡市に生まれます。幼い頃から頭が良く、第一高等学校から東京帝国大学工学部航空学科へ進学していき主席で卒業し、三菱内燃機製造へ入社するのです。

三菱内燃機製造に勤め始めた堀越二郎に三菱はヨーロッパ・アメリカに1年半派遣し、航空機の最先端の技術を学んでくるよう送り出します。ドイツの航空機・エンジンメーカーのユンカース社、米国のカーチスライト社を訪問し、欧米と日本の航空技術には大きな差があるということを実感したと同時に、「越えられないこともない」という確信もあったそうです。

帰国後、入社五年目の28歳にして七試艦上戦闘機の設計主任者に抜擢されます。当時は複葉型が一般的でしたが、堀越二郎は時代に反して単葉型にチャレンジしたのです。しかし、試験飛行した二機は墜落してしまい不採用となり、この挑戦は失敗に終わます。

七試艦上戦闘機

wikipediaより

✅九試単座戦闘機

欧米各国では軍用民間用問わず 単葉の高速機が開発されていましたが、日本は単葉機の開発が遅れていました。使用されていた九五式艦上戦闘機も複葉機となっており、速度も352km/時と低速でした。この性能では外国の進んでいく技術に対抗できないという危機感を持った海軍当局は、「九試単座戦闘機」という次期艦上戦闘機候補の設計を、「三菱」とライバル社とも言える「中島飛行機」の両社に試作指示が出されました。

七試艦上戦闘機での失敗の経験から、七試艦上戦闘機では凹凸の多かった機体表面の抵抗を減らすことを徹底するなど革新的な設計を行いました。逆ガル翼を持つ試作一号機を経て、突起のないリベット「沈頭鋲(ちんとうびょう)」を初めて用いることにより、空気抵抗を大幅に減らせた試作二号機が’’九六式艦上戦闘機’’として海軍に制式採用されました。ここに日本海軍初の全金属単葉戦闘機が誕生しました。この技術は後のゼロ戦にも生かされていきます。

九六式艦上戦闘機

wikipediaより


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ポチ太郎

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