12試艦上戦闘機計画要求書
堀越二郎を擁した三菱により作られた96式艦上戦闘機ですが、すぐに次期後継機の設計依頼が「三菱」と「中島飛行機」(現SUBARU)にされます。12試艦上戦闘機というもので、これがゼロ戦の試作機となります。
最大速力:高度4000mで270ノット(時速500km)以上
上昇力:高度3000mまで3分30秒以内
航続力:高度3000m・正規全力で1.2時間(1時間12分)、高度3000m・増設燃料タンク装備で1.5時間(1時間半)
性能 :96式2号艦上戦闘機1型に劣らないこと
銃装 :20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺、九八式射爆照準器
爆装 :60kg爆弾又は30kg2発
艤装 :ク式空3号無線・方位帰投装置・96式1号無線電話機・酸素吸入装置・消火装置
離陸滑走距離:風速12m/秒で70m以下、着陸速度は58ノット以下
前身の96式艦上戦闘機の最高時速は時速約390㎞ほど、銃装も7.7mm機銃が1挺増えた上に20mm機銃2挺も加わったにもかかわらず、これまで以上の高速性能と運動性能を要求してきました。
これに対して中島飛行機は辞退し、三菱の単独で開発に当たりました。また前作の九六式艦上戦闘機から引き続き堀越二郎が設計主務者となりました。
格闘性能・航続力・速力
1938年4月13日、十二試艦戦計画説明審議会が開かれました。その中で堀越二郎は「せめて格闘性能・速度・航続距離のうち優先すべきものを1つ上げてほしい」と要望をしました。横須賀航空飛行隊隊長源田実少佐(横空飛行隊長)は実戦体験から「あえて挙げるなら格闘性能、そのための若干の犠牲は仕方ない」と答えました。しかし航空廠実験部柴田武雄少佐も実戦経験から「攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し格闘性能は搭乗員の腕で補う」とした。この二人は海兵隊同期で実践の中で得た経験から意見をしており、どちらも正論でもあり話し合いは平行線となりました。そんな真っすぐな二人の意見を聞いて堀越二郎は真剣な両者の期待に答えることに決めました。
1939年3月16日三菱製のゼロ戦試作品「A6M1試作一号機」が完成しました。その後4月1日に岐阜県の陸軍各務原飛行場において試験飛行が行われました。三菱の名古屋航空機製作所で開発・組立が行われたのですが近隣に飛行場がなかったため、夜間に振動や衝撃の少ない牛車により岐阜県へ運ばれました。試作一号機の初飛行は高度10メートルで、約500メートルを飛行しました。試作2号機まではエンジンに瑞星13型を使用していましたが、パワー不足のため試作3号機から中島飛行機の「栄12型」を装備しました。この3号機をA6M2とし、A6M2零式一号艦上戦闘機一型が後に日本の空戦を支えるゼロ戦11型として制式採用されたのです。