1900年からの中国は、かつて中国を治めていた清国が1911年からの孫文による辛亥革命により倒れ、各地で武力によって軍閥が支配し混迷を極めていた時代でした。
この「軍閥」には’’張作霖’’などがいますが、中国への支配力を狙う各国が裏で各軍閥に支援をしており、日本は張作霖を支援しています。
中国国民党(国民政府)が軍閥達を倒していき中国をひとつにしようとしたのが「北伐」でした。しかし中国国民党を率いていた孫文は1925年に死去、その後を継いだ蒋介石が北伐していきます。
日本の息を受けていた張作霖も国民政府軍と戦闘を行いますが負けてしまい、力を失った張作霖は「張作霖爆殺事件」で暗殺されます。
これは日本が満州に置いていた軍である「関東軍」によるものといわれています。
この酷い切捨に怒ったのは張作霖の息子「張学良」でした。
張学良は憎い日本を倒すため、自ら国民政府軍に降伏します。
全土を統一した国民政府軍に日本軍と戦ってもらうことを考えたのです。
本来は敵同士である国民党と共産党、張学良は国民党側の蒋介石を軟禁して説得、国民党と共産党を協力させて抗日民族統一戦線を結成させました。
盧溝橋事件は1937年7月7日に起きた事件であり、抗日民族統一戦線の結成への引き金となった事件でした。
盧溝橋付近で軍事演習を行っていた日本軍に向け、中国軍側から銃声が聞こえたのです。
これによって日本軍と中国軍は緊張状態となります。
当時の総理大臣’’近衛文麿’’は事を大きくしないように考えていましたが、軍部はこの機を逃さんばかりに攻め入ろうと考えていました。
最終的には軍部の圧力に屈して中国大陸に大量の兵隊を送り込み、日本VS中国の図式が出来上がっていきました。
盧溝橋は1192年に造られたアーチ橋でその全長は280mほどになります。
橋の欄干には501体の獅子が置いてあります。
冒険家のマルコポーロも訪れ、その素晴らしさを東方見聞録にも記載しており、西欧では「マルコポーロ橋」とも呼ばれるそうです。
また、清国第6代目皇帝の乾隆帝が書いたとされる「盧溝暁月」の碑が橋のたもとにあります。
皇帝がこの場所で月を見ていたとの伝承があるようです。