名称 | 中島運動場跡 | |||
住所 | 〒180-0001 東京都武蔵野市吉祥寺北町5丁目11−20 |
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解説 | 武蔵野陸上競技場は、第二次世界大戦当時には中島飛行機株式会社武蔵製作所の運動場として使用された。スタンドの土盛りには横穴が掘られ、防空壕としても使用される。さらに、防空壕の上には高射機関砲が据え付けられた。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
✅1944年「中島飛行機武蔵工場」航空写真
✅中島飛行機武蔵工場 配置図
1944~45年頃 | 現在 | |
① | 付属病院 | 住宅地 |
② | 西工場(旧多摩製作所) | 武蔵野中央公園・NTT |
③ | 東工場(旧武蔵野製作所) | パークタウン・NTT・こうちゃん公園 |
④ | 中島飛行機運動場 | 武蔵野陸上競技場 |
⑤ | 第一青年学校 | 武蔵野市立第四中学校 |
⑥ | 延命寺 | 延命寺 |
⑦ | 関前高射砲陣地 | グリーンパーク緑地 |
⑧ | 中島飛行機武蔵製作所正門 | 武蔵野市立高齢者総合センター |
⑨ | 引込線「橋台」 | ぎんなん橋 |
⑩ | 武蔵野野球場線 | 堀合遊歩道 |
⑪ | 武蔵製作所引込線 | グリーンパーク遊歩道 |
第二次世界大戦期、現在の武蔵野中央公園付近には三菱と肩を並べた航空機メーカー「中島飛行機株式会社」の工場’’武蔵製作所’’がありました。
そのため、付近には関連の施設が多く集まっていましたが、その中に中島運動場があります。
この運動場は、現在の武蔵野陸上競技場の位置にありました。
✅武蔵野陸上競技場
武蔵野の戦争の記憶を訪ねて
中島飛行機 武蔵製作所 運動場跡
現在の都立武蔵野中央公園から市役所あたりまでには、かつて戦前の日本を代表する航空機メーカーであった中島飛行機株式会社武蔵製作所という軍需工場がありました。
この工場では、約5万人の従業員が交代制で働き、日本の軍用機エンジンの3割程を生産していました。このため、第二次世界大戦末期には、アメリカの爆撃機B29によりマリアナ諸島からの日本本土最初の攻撃目標となり、昭和19年11月24日を皮切りに終戦までに合計9回もの爆撃を受けました。
現在、死のスポーツ施設として利用されている陸上競技場は、当時、中島飛行機の運動場として使用されていました。競技場内のトラックを囲むスタンドは、土盛りされていますが、戦時中はこの土盛りに横穴を掘り、防空壕として使用していました。また、防空壕の上には、飛来する米軍機を迎え撃つため、高射機関砲が据え付けられました。
昭和19(1944)年12月3日の武蔵製作所に対する2回目の空襲では、この防空壕の周辺に爆弾が落ち、待機していた10代~20代を中心とする工員・勤労動員学徒らが多数犠牲になりました。
✅中島飛行機武蔵製作所の査閲式の様子
中島運動場は軍事教練や防空演習などに使用されていました。
戦争が進むとスタンドの土盛りに防空壕が造られ、その上には高射機関砲も置かれます。
1944(昭和19)年12月3目の第2回目の爆撃では、付近に落ちた爆弾の影響から防空壕が崩落し30名以上が生き埋めとなって死亡しました。